第二話 炎を()べる者 (3)


ミュウは馭者の手を借りて、紅虎(ホンフー)の引く車から降りた。
「ほぉ……これは見事ですね」と続いて降りたアルウィンが彼女の隣で上を見上げ、感嘆の声をもらす。
 それは、紅蓮(ぐれん)の炎の如く赤くそびえ立つ見事な皇城だった。外壁には小彫刻が施され、上の方はありとあらゆる色で文様が描かれている。黄色の(かわら)屋根は高地ならではの真昼の強い日差しを受けて燦然(さんぜん)と輝き、竜や獅子の装飾が厳めしい顔付きでこちらを見下ろしている。
 二人で首が痛くなる程宮殿を見上げていると、殿堂へ上がる階段の前に立っていた侍官がきびきびと近付いてきた。深衣の官服をかっちり着こなし、黒いひげを短く整えた中年の男性である。
 彼は袖口を合わせて丁寧にお辞儀をした。「ようこそお越し下さいました、エルミューゼ王女。皇帝陛下がお待ちしております」
 どうぞこちらへ、と侍官は先に立って階段を上がっていく。
 後に続いて上り始めたミュウだったが、アルウィンがついてこないことに気づいて立ち止まった。
「どうしたの?行くわよ」
 そう声をかけると、彼は頬が引きつりそうになるのをこらえているような苦い微笑みを見せた。「いえ………僕は外でお待ちしてます」
「何で?」
 首を傾げてまじまじと見つめてくる彼女に、彼は小声で歯切れ悪く答えた。「王女のミュウさんはともかく、僕まで火竜(ファイアードラゴン)国王に謁見(えっけん)するなど………」
 それを聞いたミュウは片眉を跳ね上げ、怒ったように言った。「何言ってんのよ。ここまで一緒にきたんだからっ!」
 彼女はアルウィンの袖を引っつかみ、強引に引きずって階段を上らせた。彼はわたわたと慌てふためき、「で、ですが……僕はそんな、恐れ多い………」などと途切れ途切れに言って固辞しようとするが、ミュウは「いいからいいから」と手を離さない。
「あたしを一人で行かせられないって言ったのは、どこの誰よ?ヘルメスもナターシャもいないんだから、あんたが代わりに面倒見てくれなきゃ困るのよ!」
「た、確かにそうは言いましたけど………」
 ぐいぐい引っ張られながら、自分はいつからお守り役になってしまったのだろう、とアルウィンは思った。しかし、この短期間のうちに世間知らずで常識の通じない点が目立つ彼女の性格を嫌でも知ってしまった彼は、それを考えると彼女一人で行かせるのはやはり不安になってくるのも事実だった。結局、ここまでの付き添いのつもりだった彼も、恐縮しいしい皇城に上がることになってしまったのであった。
 内廷は赤と黒の対比が美しく、ところどころに利かせた金色が華やかさを添えていた。何本も並ぶ滑らかな円柱には、文字のようにも見える奇妙な形の文様が施されている。鮮やかな朱色の壁を飾るのは、山水や鳥や花が描かれた書画だ。その両側を(うるし)塗りに螺鈿(らでん)装飾の上質な飾り棚が左右対称に並び、それぞれの上には藍色の文様を描いた白磁のつぼが飾ってある。ほのかに漂う蘭の芳香が鼻孔をくすぐる。
 二人は侍官の案内で長い廊下を進む。絹の官服に身を包んだ侍官や女官が忙しなく雑務をこなし、文官や武官が颯爽と行き交う。皇帝の来賓に気づくと、皆、足を止めて敬意を示した。
 曲がり角にさしかかると、その向こう側から話し声が近付いてきた。
「早く早く!もうお着きになりますよ!」
「わかってっから、そう急ぐな。ほら、前見て歩かないと――」
 どちらも若い男の声だった。
 三人が角を曲がりかけた時、突如、黄色と赤のしま模様が目の前に躍り出た。先頭を歩いていた侍官に真っ正面から勢い良くぶつかった一頭の紅虎は、相手と同時に小さな叫び声を上げて尻餅をつく。
「――ぶつかるぞ、って遅かったか………」ともう一つ、呆れ返ったような男の声がして、床に伸びた影が紅虎の背後でしゃがみ込む。
 聞き覚えのある声に、ミュウはぱっと顔色を明るくしてその人物の名を呼んだ。
公輝(コウキ)皇子!」
 すると、角の向こうから黒髪の青年がひょこっと姿を現した。
「よっ、ミュウ姫。そろそろ来る頃だと思ってたぜ。元気そうだな」
 彼はにいっと気さくな笑みを見せた。漆黒の髪を頭頂で結い上げ、その上に布製の小さな冠をかぶせている。武術の鍛錬中であったのか、(よろい)を身につけた軽武装だった。にっこりと細められた黄玉(トパーズ)の瞳は、どこかやんちゃな子供のようないたずらっぽい光を宿している。
 一方、その脇では腹を押さえて侍官が立ち上がり、紅虎を叱りつけていた。
「また、そなたか!万里(バンリ)!廊下は走るなと前にも言ったはずだろう?」
「……っ、すみません。申し訳ございませんでした」
 万里は鼻面を前足で押さえ、頭をペコペコ下げて謝罪の言葉を繰り返した。そして、ミュウに気がつくと慌てて姿勢を正した。
「ここここれはミュウ王女!大変お恥ずかしいところを………!」と今度は彼女にペコペコやった。猛火が全身に浮き上がったようなくっきりとした赤しまの雄々しい虎であるのに、その狼狽(ろうばい)っぷりは気弱そうな印象を受ける。
 ミュウは可笑しそうにころころと笑った。「この子はお目付け役?」
「ああ。名は万里だよ」
 青年が紹介すると、万里は尻尾をぴんと伸ばして右前足を引き、身を屈めてミュウに一礼した。
 次に、彼は視線をミュウの横にいる見知らぬ少年へと向ける。「そちらは?」
「アルウィンと申します」アルウィンは礼儀正しく名乗り、深くこうべを垂れた。
 すると、青年の笑みがより輝きを増した。「お!そうか、じゃあ君が………!」
 ミュウとアルウィンは同時に首をひねった。じゃあ君が……何なのだろう?
「二人とも、知り合いだったの?」
「いえ……あの……?」とアルウィンは戸惑い、恐る恐る彼の目を覗き込む。自分に向けられた声の調子には親しみがはっきり現れていたが、どう考えても初対面のはずだ。
 二人が不思議そうな目で見つめているのに気づき、青年は慌てたように両手を振った。「あっ、いや!ええっと……ミュウ姫が人間の供を連れて来たって、門番から連絡が入ってたからな!君がそうなんだなーって」
 何だ、そういうこと、とミュウは納得した。「そうなのよ。ユーディア大陸行きの船で知り合って、ここまでついてきてくれたの。ね、アルウィン?」
「え……ええ、まぁ………」
 赤紫(ピアニー)の髪をふわっとなびかせて振り向き、明るい笑顔を向けたミュウに、アルウィンはぎこちなく返事をした。彼女は何とも思っていないようだが、この青年が言おうとしていたのは何かもっと別のことであるような気がした。口を滑らしてしまったというような狼狽っぷりや、失礼を承知で言えば拙いとしか言いようのない取りつくろい方。本当は何を言いかけたのだろうか、とアルウィンは気になった。しかし、恐らく高貴な人物であろう彼から本意を聞き出す程愚かではないアルウィンは、賢明にも顔に微笑を張りつけたまま黙っていることにした。
 今度は、ミュウが青年を手の平で指し示し、「で、こちらが――」とアルウィンに紹介しようとする。
 その後を引き継ぎ、彼は微笑を引っ込めて表情を引き締め、背筋を伸ばして堂々と名乗った。「火竜国王位第二継承者、燿 公輝(ヨウ コウキ)だ。永熙(エイキ)帝の孫に当たる」
 火竜国王の孫。アルウィンは今一度深々と頭を下げた。「お目にかかれて光栄です、皇太孫殿下」
 すると、公輝は急に吹き出し、「んな堅苦しくならなくていいぜ!な?な?」と彼の肩をバシバシ叩く。
 それは、幼なじみに水臭いぞと指摘するような、親しい間柄にするような優しさがこめられていたので、アルウィンは面食らった。
(火竜国の皇子が、こんなにくだけた方だったとは………)
 彼は内心、ぽかんとした。何故かはわからないが、気に入られたらしい。それとも、誰にでも友好的な性格なのだろうか。
 公輝は自ら永熙帝への取り次ぎをすると言い出し、侍官を下がらせると二人の前に立って歩き出した。彼の数歩後ろを万里が赤しまの長い尾をゆらゆら揺らして歩き、その後をミュウとアルウィンが続く。
 前を行く公輝と万里を眺めながら、ミュウは二人の姿を自分とヘルメスに重ね合わせ、羨ましく思った。彼の隣には紅虎がいる。けれど、自分の隣にはスパークレオの彼はいない。幼い頃から共に育ち、常に側にいて守ってくれたヘルメスはあの日、自分を逃すために魔獣の群れに飛び込んで行ってしまった。生きているのか、怪我はしていないか……考え出すとキリがない。
 あの口うるさくてお節介でいつもため息ばかりついてる彼の、温かいはちみつ色のたてがみの手触りが妙に恋しくなってきて、彼女は懸命にヘルメスのことを思い出さないように努めた。
 思い出しちゃダメ、考えちゃダメ。きっと大丈夫だから。
 思い出しかけた全てを、拾い集めて胸の奥底に押しやり、蓋を閉じた。そうしなければ、不安に押しつぶされてしまいそうだった。心配で心配で、明るく前向きな自分を見失ってしまいそうだった。
 ダメ、そんなんじゃ。そんなの、あたしらしくないから………。
 ミュウはぐっと頭をそびやかして心を閉じ、残酷な現実から目をそらした。
 その時、アルウィンが肩をトントンと軽く叩いてきた。
「ミュウさん」
「なぁに?」
「公輝皇子が最初にミュウさんにおっしゃっていたこと、気になりませんか?」彼は声を落とし、耳元でひそひそと囁くようにそう言う。
 ミュウは何のことかわからなかった。あごに人差し指を当てて斜め上を見上げ、「最初に言ってたこと?」と記憶をたどろうとする。
「ほら、『そろそろ来る頃だと思ってたぜ』とおっしゃっていたでしょう?それって、ミュウさんがここに来ることはわかっていたということじゃないでしょうか?」
「あ」
 指摘されて、ミュウは初めて気がついた。闇竜(ダークドラゴン)の手の者が雷竜(サンダードラゴン)国に攻めてきたことは、まだ他国には知れ渡っていないはずだ。運良く逃げ延びたのは彼女一人だけで、それを永熙帝に知らせるのが母から言いつかった彼女の役目なのだ。
 ミュウははっとして赤紫の目を大きく見開き、公輝の背中に声をかけた。「公輝皇子!もしかして、あたしがくるってわかってたの?!あたしの国に、雷竜国に何があったか知ってたの?!」
 公輝は歩みを止めずに頭だけで振り返り、「雷竜国に異変が起きたことは察していた」と深刻な面持ちで頷いた。「二週間前からだったか、神殿にある光珠(オーブ)に影が渦巻き始めてな。そのせいで、他の竜族の国王と連絡がつかなくなったんだ。光珠は竜神の依代であると同時に、竜族六国の王達を繋ぐ通信手段でもあるからな。これは、どこかの国に何かあったに違いないと思って他国に使者を送ったら、雷竜国だけ連絡が取れなかったから、心配してたんだ」
 くわしい話は大父上からあるだろう、と彼は一旦話を終えた。
 謁見の間に着くと、公輝は王家の紋章のついた大扉を叩いた。「大父上、エルミューゼ王女がお着きです」
 彼が扉を開くと、鮮やかな色彩があふれ出てきた。高い天井には赤や青や緑、そして金をふんだんに使った極彩色の天井画がある。大きく描かれた火竜の周りを雲や鳥が取り巻くという構図だ。広間の奥には四方を朱色の柱に囲まれた黄金の玉座があり、宮殿の主たる永熙帝が威風堂々と腰を下ろしていた。山吹色の絹に金糸で竜が縫いとられた豪奢(ごうしゃ)な衣裳を身につけ、頭上に戴く冠からは白い玉飾りが何本も連なり、顔の前後で揺れる。口の両側から伸びた床まで届きそうな白い口ひげに、年月と共に深く刻まれたしわ。細く鋭い眼光を放つ一重まぶたの目元。人の姿でありながら、どこか竜のような印象を受ける人物である。傍に控えるのは宰相を含む四人の重臣と、ミュウの父と同じ位の年齢の皇太子の姿もあった。
 彼女が謁見の間に足を踏み入れるなり、火竜王は立ち上がった。突然の訪問の非礼を詫びる間も与えられず、ミュウとアルウィンは皇太子や重臣達からわき起こる息を呑む声と低い叫びに取り囲まれた。
「ミュウ王女!ご無事でしたか!」と抑えた足取りで皇太子が一番に駆け寄った。
徳裕(トクユウ)皇太子、公輝皇子のお父様よ」とアルウィンの耳にそっと囁いたミュウは、ドレスを扱うように深紅のマントの端をつまんで身を屈め、宮廷風の挨拶をした。
 アルウィンは同じように挨拶しながらも、頻繁(ひんぱん)に他人の名前を間違う彼女の癖を知っているだけにちらりと不安がよぎったのだが、それでも公輝皇子の名は間違えなかったので、多分合っているだろうと当たりをつけた――というよりは、そう思い込むことにした。
「陛下共々、身を案じておりましたぞ」
「供も付けずに、よくお一人でここまで………!」
 口々に騒ぎ立てる重臣達を、「静まれ」と永熙帝が穏やかに制した。
「ミュウ王女、息災で何よりじゃ。この数日、雷竜国が心配で夜も眠れぬ日々を送っておったのだ」
 そして、アルウィンへと視線を移した王の淡い黄色の目に温かな光が灯った。「チェン・アルウィンと申したな。雷竜国の王女をよくぞ無事に送り届けてくれた。余からも礼を申すぞ」
「身に余るお言葉にございます」
 アルウィンはうやうやしく片膝をつき、両手を合わせてこうべを垂れる。皇宮に上がることを戸惑っていた割には、気品のある自然な所作だった。普段から礼儀正しくはあるが、貴人に対する礼儀作法に慣れているようにさえ見えた。
 永熙帝はミュウの無事を確認して安心したのか、脱力してゆるりと玉座に腰を落とした。
 雷竜国に何があったのか、という問いに、ミュウは母から預かってきた手土産を両腕の竜の息吹(ドラゴン・ブレス)から出し、永熙帝に差し出した。
 土産物はさておき、添えられた手紙を読んだ永熙帝はさっと顔色を変え、眉間に深いしわを寄せていくつか質問をした。ミュウがたどたどしくかいつまんで自国に起きたことを説明し、時折、アルウィンが助け船を出す。周りの重臣達や徳裕皇太子は耳をそばだてて静かに聞き入った。
 事態を把握した老王は、うつむき加減で重々しく頷いた。「雷竜国の結界が悪用されて通信手段が途絶えた故、異常事態には気づいておった。すぐに他の竜族に使者を遣わしたのだが、雷竜国だけ連絡が取れぬ。使者が申すには、ロードン大陸上空に強力な悪しき結界が張り巡らされ、雷竜国どころか大陸に入ることすら不可能らしい」
 ため息を挟み、永熙帝は顔を上げてミュウに和らいだ眼差しを注いだ。「何の情報も得られず、エウフェーミア女王やそなたらの身を案じておったのじゃ。そなただけでも無事で本当に良かった。案ずるな。たとえ闇の力に侵されようとも、ロードン大陸の結界が存在する限り、術者であるそなたの母君は無事じゃ。父君もな」
「ミュリ姫も無事だ」と公輝も請け合う。「雷竜は雷光をつかさどる者。六竜の中で一番光に近いから闇にも負けない。なのに、女王が結界を明け渡したのは、恐らくミュリ姫を人質に取られているから従うしかなかったんだろう。女王に結界を張らせているうちは、ミュリ姫もきっと大丈夫だ」
 説得力のある彼の励ましに、家族の名が出たことで憂いが差しかけたミュウの表情に小さな微笑が戻った。兄のように頼もしく力強く温かい微笑みは、元より前向きな彼女の心に希望の光を取り戻させるのには十分だった。
 徳裕皇太子が片眉を上げ、「えらくまともなことを言うではないか?」と感心したような、それでいてからかうような口振りで言い、永熙帝と同じ瞳で息子をじろじろ見やった。
「その言い方じゃ、俺が普段アホなことしか言ってないみたいに聞こえるんですけど、父上?」と公輝はふて腐れたように言い、唇を尖らせた。
 永熙帝は愉快そうにくつくつ笑うとミュウに向き直り、本題に入った。「さて、そなたの話を聞いたところ……余が思うに、闇竜は完全な復活を遂げてはいないのではないかな?」
「どういうこと……ですか?」
 驚きのあまり、思わず普段の砕けた口調になりかけたミュウは、慌てて敬語に直した。


   

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