第一話 竜族の姫君 (2)


 ミュウ達が城に戻ろうと、森の中を歩いていた丁度その頃。雷竜(サンダードラゴン)国の神殿の前に、一人の女が立っていた。淡い色のワンピースの上に、肩を覆う位の長さの短いマントをはおり、顔はフードに隠れて見えない。
 彼女は白亜の神殿を見上げた。正門の両側にはいくつもの円柱が並び、その上部には竜のレリーフが刻まれている。ここには、雷竜族の祖先と伝えられる雷の守護竜神が祭られているのだ。レリーフに向かって唇を上向きに曲げて見せ、彼女は正門をくぐった。
 神殿の中は、白と金に包まれていた。壁や床は大理石をふんだんに使い、黄金のモザイク画が天井を埋め尽くす。祭壇上の天蓋にはステンドグラスがはめ込まれ、太陽の光がさんさんと差し込んで七色の光を床に映し出している。千年以上も改築を繰り返してきた歴史ある建物であるが、手入れが行き届いていておごそかに光り輝いていた。
 彼女は大理石の身廊にカツーン、カツーンと靴音を響かせながら祭壇へと歩みを進め、その前にひざまずいて祈るように指を組んだ。
 周りには、彼女と同じように祈りを捧げる参拝客がおり、供物を持って忙しそうにしている巫女や、人々の相談に乗る神官の姿があった。最初は、誰も彼女の存在を気にもせずに自分の用事に没頭していたが、やがて若い巫女が彼女の熱心な祈りに気付いてそっと近付いた。
「迷いごとがあるのですか?」巫女は声をかけた。長い髪をすっきりとまとめ、足首まで届く白い衣装を身に着けている。
 しかし、彼女はその姿を見ようともせず、うつむき加減で組んだ指を額に押し当てたまま、静かに言った。「主よ、お許しください。わたしはこれから罪を犯します」
「どのような罪を犯すというのですか?」と巫女は慰めるような穏やかな声で問いかけた。
 死角でゆらり、と影が揺れた。巫女も、参拝客も、それに気付かない。
 彼女は口元に怪しげな笑みを広げた。
「この国の聖なる結界を破ることよ!」
 彼女がそう叫ぶと同時に、ズズズッと黒い物があちこちから飛び上がった。人の影、柱の影、ベンチの影。神殿中の影という影が動き出し、巫女や神官や参拝客を襲った。口をふさがれて悲鳴を上げる間もなく、パタッ、パタッと一人残らず倒れていく。
「うふふっ。楽勝ね。あなた方、それでも雷竜族?か弱いこと」
 彼女はフードを脱いだ。亜麻色のポニーテールがふわりとうなじにかかり、オレンジの瞳は小馬鹿にするように倒れた人々に注がれている。
 次に、彼女は祭壇の奥、内陣へと目を向けた。六角星形の魔法陣を描いた床の上に、淡い光を放つ透明な光珠(オーブ)が浮かんでいる。女王や神官が信託を受ける時に竜神が乗り移るというこの球は、雷竜国を魔獣や魔神などの危険なものから守る結界の源でもある。
 片耳の黒曜石のピアスに手を添え、彼女は何者かに呼びかける。「こちら、メビウス。結界の源を見つけましたわ」
『破壊しろ』とピアスから低い男の声が言った。
「仰せのままに」
 彼女は耳に添えていた手を、宙に浮かぶ光珠へと差し向けた。
 再び影がうごめき、一斉に攻撃をしかける。影に包まれた光珠はどす黒く染まっていくが、抵抗するように光を放ち続ける。
 しかし、とうとう小さなひびが入り、結界の力が弱まった。

 ピシッ、ピキ………パキッ………。

 それを合図に、雷竜国の通国ゲートの外に黒いもやの塊が現れた。虚空にぱっくりと真っ黒な口が開き、無限に広がる空間からもぞもぞと何かがはい出して来る。
 暇そうに塀にもたれかかっていた衛兵達は、がばっと身を起こして身構えた。
「なっ、何だあれは?!」
 一人がそう叫んだ途端、背後で黒い影が躍った。地面にかくん、と膝をついた時には、すでに彼らは事切れていた。
 異空間から出て来たのは、ゴツゴツした褐色の皮膚をした大トカゲの群れだった。大トカゲ達は衛兵の亡骸の上を踏み越え、泥の波の如く国内へ流れ込む。
 その様子を、六つの人影が眺めていた。
「ダートったら。殺しちゃうなんてもったいなぁ〜い。そっちの彼、割とイイ男だったのにぃ」
 大トカゲの群れに押し潰され、下敷きになってピクリとも動かない衛兵に目をやり、女が色香を含んだ声で少し残念そうに言う。ガーネットの長い髪と、露出の多い服。上半身は人間だが、下半身は髪と同じ色のうろこに覆われた蛇の身体だ。
 ダートと呼ばれた男は、「お前の都合など、知ったことか」とくぐもった声で淡々と言った。高襟のコートのせいで顔の半分が隠れ、赤く冷たい目が女を見下ろしている。
「だってぇ」
「もうっ、あそびにきたんじゃないんだからね!」とロリータ風のひらひらした服を着た少女が、腰に手を当てて眉をつり上げる。「ディアギレフさまのごめいれいなのよ。まじめにはたらいてよね、エヴァ!」
「わ〜かってるわよ、ポワちゃん」エヴァは真っ赤な唇を妖艶に歪ませて、薄く笑った。
「オフザケハ、ソコマデデス」と甲高い声が割り入った。三日月形の目と口の不気味な面を着け、黄緑とオレンジの派手な衣装のピエロ男。
 その横で、タカの目をした白衣姿の初老の男も言う。「イリーの言う通りだ。ぼやぼやしてると、メビウスが破った結界が修復されちまうぞ。ワシらも早く入らんと」
「その前に、プレグよぉ。他のゲートもふさいどいた方がいいんじゃね?」二メートルはあろうかという巨体の男が、指をボキボキ鳴らして言った。人型だが、頭と尻尾、そして爪はトカゲのものだ。
「そうだな、レージィ」ダートが全員を見渡す。「大トカゲ(こいつら)を回して、他のゲートも全てふさげ。誰も国外へ逃がすな。城門前で落ち合おう」
 全員、ニヤリと笑った。六人が片手を振ると、それぞれの前に異空間への入口が出現し、彼らはその中に飛び込んで一瞬にして消えた。


 城内は張り詰めた空気が流れ、大臣や衛兵が慌ただしく駆け回っていた。いつものように「お帰りなさいませ」と出迎えてくれるメイドもおらず、ミュウはおや、と首を傾げる。
「ねぇ、何か……様子が変じゃない?」
 ミュウがそう言った時、目の前を親衛隊がバタバタと駆けて通り過ぎて行った。そのうちの一人は彼らと別れ、急ぎ足で階段を駆け上ろうとしている。ダーナはその騎士の背に、「セロン隊長!何ごとですか?」と声をかけた。
 彼は振り返り、「ダーナ。ミュウ様、ミュリ様も」と慌ててミュウとミュリに会釈した。セロンは王族を守る親衛隊の隊長である。短く刈ったベージュの髪。淡い赤紫(ピアニー)の瞳には、不安といら立ちが見え隠れしている。
「どうしたんだ?何かあったのか?」
 ヘルメスが訊くと、セロンはしかめっ面をして頷いた。「ああ、ヘルメス。結界が破られた」
 信じ難い、信じられない知らせに、四人は息を呑んだ。
「まさか!」とミュリは口を手で押さえた。「お母様が魔力を注いで、つないでいる結界よ?破れるわけないわ!」
「ええ、そのはずなんですが………」とセロンは唇を噛んだ。「そのせいで魔獣が侵入し、民を襲っているのです」
「なんですって?!」ミュウとミュリは同時に叫んだ。
 大トカゲの姿をした魔獣がどこからともなく大量発生し、国中を暴れ回っているというのだ。救援に向かわせた兵でも数が足りず、とても防ぎ切れないという。
 女王に状況報告に向かうというセロンと共に、ミュウ達は階段を駆け上がり、女王の元へと急いだ。
 女王の間では、エウフェーミア女王が夫の既望(きぼう)とトール神官と深刻な表情で話し合っていた。
「お母様!結界が破られたって………?!」
 扉を開けて飛び込んで来たミュウを見て、女王は「ミュウ!よかった。戻ったのね」と心からほっとした様子で言った。これで、彼女の心配は一つ消えた。この緊急事態に娘の行方までわからないというのは、胸が張り裂ける思いだったのだ。
 セロンがうやうやしく女王の前に片膝をついた。「陛下、結界の修復は完了致しました。しかし、妙なのです。光珠にかけられた魔法も、魔獣が放つ魔法もかなり強力な上、見たこともないもので………」
 困惑する彼に、女王は頷いてやや目を伏せた。「悪しき力を感じます。この国に、私達とは真逆の属性を持った者が侵入したようですね。この力……おそらく、闇の魔法でしょう」
「闇?!そんな属性、聞いたことないわ!」とミュウが口を挟み、指を折って数える。「雷、火、宙、地、水、風、それに氷。他に属性なんてないでしょ?」
「ミュウ様。確かに――」と今度はトール神官が、杖をついて進み出た。「確かに、闇の属性などというのは、この世にございません……邪眼島(アイアゲート)に封印された、闇竜(ダークドラゴン)を除いて」
「闇……竜………」ミュウはごくりと喉を鳴らし、その恐ろしい邪神の名を口の中で繰り返す。
「闇竜が復活したと言うの?!」ミュリが悲痛な声を上げる。「そんな………千九百年以上も目覚めたことがないのに。封印の重ねがけは百年に一度、行っているでしょ?次に封印の効力が弱まってくるまで、まだ四十年近くあるわ。なのに、なのにそんなこと………!」
 怯えて震えるミュリの肩を、既望が優しく抱いた。「しかし、この国の強力な結界を破る程の魔力があるとしたら、そうとしか考えられない。光珠には女王の力だけじゃなく、竜神の力もこめられている。破るには、それ以上の力が必要だ。竜神を超えるなど、僕達竜族でさえ無理だ。他の種族にもできる訳がない。だが、闇竜は別だ。彼は邪神、破壊神と言われている。そして、この世で唯一、闇の魔法に属している」
 部屋に、恐怖と絶望の沈黙が降りた。
「ついに、始まったわね………」女王が独り言をもらす。その声は、小さすぎて誰の耳にも届かなかったが。
 すぐに彼女は表情を引き締め、君主としての威厳ある声でセロンに命じた。「全兵力を向かわせなさい。民の安全が最優先です」
「はっ!」セロンは答え、急いで部屋を出て行った。
「ミュウ。こちらへ来なさい」
「はい」
 突然呼ばれ、何だろうといぶかりつつミュウは母に従った。
 女王は両手の平を胸の前で上向けた。手首には、竜族の王の証である腕輪、“竜の息吹(ドラゴン・ブレス)”がある。呪文(スペル)を唱えると、腕輪はポウッと光り出した。
「我が主、雷神雷竜よ。我、雷竜族の女王エウフェーミア・トルエノンは、汝の審判を求む。我が娘、エルミューゼ・トルエノン。この者が真に王の証を得るにふさわしいか、裁きを下し給え」
 竜の息吹は輝きを増し、あまりの眩しさにミュウは目をつぶった。次の瞬間、女王の両手首から腕輪が消えた。同時に、ミュウがはめていた金の腕輪がカチャリと外れて落ち、かわりに竜の息吹が現れ、収まった。
「わぁっ!ど、どうしてあたしの手に?!」ミュウは赤紫の目を丸くし、自分の手にはめられた黄金の腕輪をまじまじと見つめる。
 女王は、安堵のため息をついた。
(よ、よかった……竜の息吹(これ)は、竜神に認められた者にしか託せないのよね。こんな娘でも、一応は認められているらしいわ)
 女王が口を引きつってしまいそうな顔をしているので、ミュウは「お母様?」と片眉を上げた。
「いいえ、何でもないわ」と彼女は慌てて言った。そして、本題に入る。「それを持って、ミュリとこの国を出なさい。闇竜が目覚めたのだとしたら、真っ先に竜の息吹を破壊しようと狙うでしょう。それは、闇竜を封印し続けるための魔法具でもあるから、彼にとっては目障りな物なのよ。それさえあれば、再び彼を封印できるわ。だから、それを持って早く逃げなさい」
「お母様とお父様は?!」
「僕達は、ここに残るよ。民と共に」と既望が穏やかに微笑んだ。
「どうして、あたしとミュリだけが逃げなきゃいけないの?お母様の魔法にかなうヤツなんて、いないじゃない。ここへ攻めてきたとしても、やっつけられるでしょ?!」
 女王は身を屈め、ミュウが元々着けていた金の腕輪を拾い上げた。それを自分の腕にはめ、娘にふっと笑いかける。「これを着けていれば、敵の目をごまかせるわ。きっと、女王の私が竜の息吹を持っていると思い込んでいるでしょうから」女王は、自らおとりになるつもりだった。「ここから一番近い竜族の国は、火竜(ファイアードラゴン)国。永熙(エイキ)帝に何が起こったかのかを話し、全竜族の王に知らせてもらいなさい。六人の王が持つ竜の息吹がそろわなければ、闇竜を封印できないから」
「どうして、あたしなの?あたしはまだ女王じゃないし、お母様の役目なんじゃないの?!」
(いいえ、ミュウ。それは、あなたの役目なのよ………)
 女王は声には出さず、心の中で呟いた。
「さぁ、急いで――」
「いや!あたしも残る!」扉を指差す母に、ミュウはわめき散らした。「あたしだって、もう戦えるもの!残って一緒に戦うわ!」
「ミュウ…………」女王は、どう説得していいものやらと眉をハの字にした。
 すると、既望が助け船を出した。「ミュウ。君には、竜の息吹を守るという大切な役目があるだろう?」
「でもっ!」
「危険な旅になるかもしれない。ミュリを守ってやってくれ」
 危険な旅。それは、ミュウの好奇心をくすぐった。さらば、帝王学。さらば、古代竜語講座。
「……わかったわ」と彼女はやっと頷いた。
 ヘルメスとメイドのナターシャが呼ばれ、二人の供をするよう命じられた。
 ダーナは女官らしい口調で、ヘルメスに釘を刺した。「いつものようなヘマは許されませんよ。お二人をしっかりお守りしなさい」
「ああ、この命にかえても」と彼は胸を張って答えた。
「不吉なこと言わないでよね」ミュウはげぇっという顔で、彼を睨み付ける。
 その時だった。女王の間の扉が、勢いよく開いた。


   

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