第二話 交錯する想い (8)
「冬緑は来るだろうか?」
集まった仲間の顔触れを目で確認して、破暁が声を落として言った。
湖霞は一度、睫毛を伏せた。すっ、と開いた瞼の下の赤み掛かった茶色の瞳は、自信に満ちていた。
「来るわ」彼女ははっきりと答えた。
(わたしは、そう信じてる………)
薄暗く広い場所に、無数のランタンの灯りが煌めいている。二人の他にも大勢の者の影が、コンクリートの床や壁で揺れ動く。ざわざわ、と抑えた騒めきが聞こえる。
集合時刻が近付き、革命軍の集会が始まろうとしていたその時だった。突然、外から破壊音が鳴り響いた。
全員がぎょっとし、音の方角を見遣る。扉が外側から抉じ開けられようとしていた。何十人もの怒号が建物をぐるりと取り囲む。
破暁の指示で全員が覆面で顔を隠し、中央に固まって身を寄せ合う。室内に張り詰めた空気が満ちる。誰もが口を閉ざし、息を潜めた。
ドンッ!ドンッ!ドンッ!
扉に乱暴に体当たりする音と、捕吏が上げる閧の声が、耳に五月蝿く響いた。
「羅喉………」
破暁が掠れ声で、親友であり右腕でもある男の名を口の中で呟いた。
冬緑が扉を潜ったのは、一軒の古びた大衆酒場だった。地味な外観で清潔さにも欠け、客は地元の人間ばかりだ。
暗い色合いのマントで全身を包み隠した彼は室内でもフードを上げる事なく、人々の好奇の視線を集めてしまう前に階段を見つけて、素早く二階に上がる。幾つかの宴会用の部屋の内、あるドアの前に酒瓶を片手に酔い潰れて座り込む男がいた。
冬緑は男に近付き、漸くフードをぱさりと取り払って顔を見せた。
「すみません。今何時かわかりますー?夜明けまでどの位待てばいいか知りたくてー」
にこやかに声を掛けると、男はのろのろと顔を上げた。名前は聞いていないが、暗器を使った戦い方の指導をした時に見かけた男だった。
冬緑の顔を見ると、男は「へぇ。来たのかい、先生」と口の片端を吊り上げた。酔った振りをしているだけで酔っていない事は、目を見ればわかる。
「ただ待ってるだけか?夜明けは自分の手で掴むもんだろ。そうは思わねぇか?」
「同感だよー」
合言葉で仲間であると確認し終えた冬緑はにっこりした後、「でも、“先生”って呼び方は止めて欲しいなー」と苦笑混じりに言う。
男が壁側にずれて場所を譲ってくれたので、冬緑はドアを開けた。
中は宴会用の広い部屋になっていた。既に大勢集まっているのかと思いきや、そこにいたのはたった一人だけだった。焦げ茶色の短髪に鈍色の瞳、がっしりした体躯の男。年齢は彼と同じ位だ。椅子に腰掛けて頭の後ろで腕を組み、足を卓の上に乗せるというだらしない恰好をしている。
「よう」冬緑をじろりと一瞥し、羅喉は不愉快そうに言った。
「あれー?君一人だけ?皆はー?」
「まだみてぇだぜ。早く来すぎたかもな」
「珍しいねー」
のんびりそう答えたものの、冬緑の頭にちらりと違和感が過った。数十人は集まる筈だし、時間もそんなに余裕を持って来た訳ではないのに、まだ二人しか来ていないとは。しかし、その疑問を口にする事はなく、卓を挟んで彼の向かい側の席に座る。
羅喉が無言で突き出した酒を、冬緑はやんわりと断った。「これから戦略会議だし、明晰な頭をとっとかなきゃねー」
「明晰な頭、な」羅喉の目が鋭く光る。「そりゃ、本当に会議のためか?」
「他に何があるのー?」
疑念に満ちた目を向けられても、彼はにこにこと親し気な態度を崩さない。羅喉は敵意剥き出しで相手を睨み据え、大きく鼻を鳴らした。
他の仲間はなかなかやって来なかった。冬緑が暇潰しにぽつりぽつりと取り留めのない話をするものの、羅喉は適当に相槌を打つか無視するだけだった。唯でさえ互いに饒舌ではないのに、片方に話をする気がないとなると直ぐに間が持たなくなる。沈黙が続く中、冬緑は退屈そうな顔一つせず、羅喉はそんな彼の涼しい横顔を厳しく睨み続けた。
急に、部屋の外が騒がしくなった。見張りの男の声と少年の声がする。早口で幾つか遣り取りした後、ドアが勢い良く開き、小柄な人物が転がり込んで来た。覆面の下から覗く橙色の瞳で、宵明だとわかる。ここまで走って来たのか、はぁはぁと息を切らし、苦しそうに途切れ途切れに声を洩らした。
「ら、羅喉……っ。捕吏、が………!」
「来たか?」と羅喉は目を細め、口角を持ち上げる。
ところが、少年の次の報告に、彼は忽ち余裕を失う。
「いや……違うんだ……。襲撃された、のは……リーダー達のいる………!」
羅喉は目を剥いた。慌てて椅子から立ち上がる。がたん、と椅子が後ろに引っ繰り返った。
「な、何?!そんなはずは!こいつはここにいるのに?!」と彼は叫び、冬緑の方を見た。
冬緑はその意味を測り兼ね、「どういうこと?」と眉を顰めて二人を交互に見つめる。
事態を把握出来ぬまま、冬緑も二人と見張りの男と共に酒場を飛び出した。月明かりもない曇り空の下、夜の闇の中を四人は疾駆した。捕吏に付けられていないか周囲を確認しながら路地裏を駆け抜け、宵明の案内で辿り着いたのは人気のない場所にひっそりと建つ廃ビルだった。敷地内に張り巡らされた鎖を潜り抜け、鍵のない入り口から中に入る。
見張り役の男はそこに残って捕吏を警戒し、冬緑と羅喉は宵明が掲げるランタンの灯りを頼りに、地下へ続く階段を降りて行く。階下のドアの隙間からは、温かな光が洩れていた。
「冬緑っ!」
三人が部屋に入ると、湖霞が弾かれたように立ち上がり、駆け寄って来た。赤茶色のセミロングの髪を揺らし、同色の瞳を潤ませて胸に飛び込む彼女を、冬緑がしっかりと抱き止めた。
再会を果たした恋人達の隣で、羅喉が真っ赤になった。今にも絞め殺さんばかりに冬緑を凝視する彼の肩を、ぽんぽんと軽く叩いて破暁が宥める。漆黒の瞳には、同情と微かなからかいが宿っている。
「羅喉。認めたくないのはわかるが、冬緑は白だ」
「まだそうと決まった訳じゃねぇだろ!」と彼は喚いた。
湖霞を腕の長さ分だけ離した冬緑が、「そろそろ説明してくれるー?何が起こってるのか全然わからないしー」と穏やかに訊いた。
破暁が決まり悪そうに癖の強い黒髪を掻き上げ、口を開いた。「実は、お前にだけ偽の集会場所を伝えていたんだ」
「偽の?」と冬緑はやや目を見開く。「何で、そんなことを?」
「お前が内通者かどうか確かめるためさ」彼は苦笑しながら答えた。「もし、お前が本当に内通者なら、宵明から伝えられた通りの集会場所を捕吏に教え、捕吏はそこを襲撃するはずだ。つまり、囮役の羅喉しかいない偽の集会場所をな」
ところが、捕吏にバレていたのは本物の集会場所である廃倉庫の方だった。彼はその時の事を詳しく語り始めた。
倉庫は今にも扉が壊されそうな緊迫した空気に包まれていた。
「リーダー………」と湖霞が不安そうに囁いた。
「静かに」
破暁は扉から目を離さず言った。敵が侵入して来た時に備えて武器に手を伸ばす仲間には、「武器はまだ隠しておけ」と指示する。
ついに、前後の大扉と片側の出入口ドアが破られ、三方向から捕吏が押し入った。水浸しの入り口付近をびちゃびちゃ音を立てて入り込み、なす術もなく立ち竦む彼らを包囲した。
「全員、動くな!」
捕頭らしき男が進み出た。威圧的に顎を聳やかし、倉庫中に響き渡る低い声を放った。「反乱軍首謀者、破暁。その方ら全員、皇帝への反逆罪及び反乱予備罪で召し捕らえる」
「反乱軍?何のことやらさっぱりだな」と破暁は肩を竦め、白を切る。
「惚けても無駄だ。これが反乱軍の集会であることは一目瞭然――」
「だーから、見てわかるだろう?」と彼は鷹揚に話を遮った。「黒ずくめのマントと覆面、薄暗い倉庫にランタンの灯り――カピバラの生態研究会だよ」
「どこがじゃあ?!つくならもっとマシな嘘をつけ!!」と捕頭は怒鳴った。「今夜、この倉庫で反乱軍の集まりがあるという情報は入っている。言い逃れは出来んぞ。全員、大人しく従え」
その台詞に、破暁の目の奥がきらりと光った。
(やはり、捕吏と通じている奴がこの仲間内にいるってことか………)
破暁は大きな笑いを放った。場にそぐわない快活な笑い声は、敵に囲まれて怯み掛けた仲間を奮い立たせるのに十分だった。
「オレ達が反逆者だと言うなら、玄武帝は国民全員に対する反逆者だ。我が身可愛さに皇帝の犬となったお前らも同じこと。民がいなければ国は成り立たない。にも関わらず、皇帝は公務を放棄し、奸臣共が成り代わって私利私欲のために政治を動かし、それに便乗して役人は民を虐げ、重税を課し、私腹を肥やしている。
国民のために動こうとする政治家は誰一人いない」
仲間達も賛同し、そうだそうだと熱り立つ。
「今の漢帝国を、オレ達は認めない!国を守れない君主はいらない!」
リーダーの堂々とした宣戦布告に、革命軍は歓声を上げ、武器を翳して騒ぎ立てる。皇帝制を廃止しろ、玄武帝の汚い犬っころ共め、と口々に怒号が乱れ飛ぶ。娘を返せ、恋人を返せ、と後宮に無理矢理連れて行かれた女性達の解放を求める声も上がった。
捕頭が歯を食い縛り、怒りに震えた。
「引っ捕らえろ!」
捕吏が一斉に襲い掛かる。
破暁が手元の灯りをふっ、と消した。それを合図に、他の灯りも次々と消え、辺りは真っ暗になった。
しかし、暗くなった事で逆に光り出したものがあった。
「何だ、これは?!」
捕吏達は仰天して、不気味に青白く光る己の足を見下ろした。入り口付近に撒かれていた蛍光塗料を蹴散らしながら侵入した時に、ブーツに付着したものだった。
灯りが消えて視界は塞がれても、革命軍には出口の場所はわかっている上に、暗い中でも捕吏の居場所は明白。完全に革命軍側が有利だった。
革命軍は武器を手に、敵の印たる青白い光を放つ足を狙った。奇襲攻撃を受ける捕吏の悲鳴や叫び声が飛んだ。彼方此方で上がる血飛沫は闇に紛れ、視界を汚す事もない。互いの顔も認識出来ぬまま、殺戮は淡々と繰り広げられた。
暗闇の死闘は直ぐに決着が着き、革命軍は蛍光塗料が撒かれた場所を躍り越え、外へ飛び出し、夜の町に散り散りに逃げたのだった。
破暁が話し終えると、マントを脱いだ宵明が、倉庫の外で見張りに立っていた時の状況を話し始めた。若草色の髪はくしゃくしゃになっていて、橙色の目と声には疲労が見て取れる。
「捕吏が何人か忍び寄って来た時、四人で見張ってたんだけど誰も気づけなかった。見張り役のうち二人は声も出せずに斬り殺された。もう一人は捕まったんだけど、連行される前に自害を………」
彼は力無く下ろした拳を握り締め、爪を立てた。湖霞は手で口を覆い、他の三人も黙りこくった。
「拷問にかけられて俺達の情報を話してしまう位なら、と自ら命を絶ったんだろう」と破暁が肩を震わせながら低い声で言った。
「ごめん!」宵明が叫ぶように謝った。「気づいた時にはもう遅くて、大勢に取り囲まれてて……妖力で気配消してたおれだけ助かったなんて………」
悔しさに震え、俯く彼の頭を、羅喉がくしゃりと乱暴に撫でる。
破暁も和らいだ目を向けて、彼に言う。「お前には、もし何かあった時にはオレ達のことは構わずに羅喉の所に知らせに走るように言っておいただろう?その役目はちゃんと果たしてくれた。よくやったよ。お前のせいじゃない」
「悪いのは、奴らに情報を渡した裏切り者だ」と羅喉も天井を見上げながら鈍色の瞳を険しくして言った。
宵明は小さく嗚咽を洩らした。
破暁は冬緑に向き直り、罠に填めた事を詫びた。「けど、オレはお前が裏切り者じゃないと信じてた。だからこそ、本当の集会場所に捕吏が来ることを考えて、反撃の作戦を練っておいたんだ」
「おれが裏切る訳ないじゃないかー」冬緑は苦い笑いを浮かべる。「で、これで疑いは晴れたー?」
「まだ晴れちゃいねぇ……本当の集会場所の情報を他の奴から聞き出してあらかじめ捕吏に流し、騙されたフリして偽の集会場所に来て空とぼけてるってことも十分ある」と羅喉が奥歯をギリギリ噛み締めて、彼に言った。
「もういいでしょう?!いい加減にして!」
裏返った鋭い声が放たれた。湖霞が羅喉をきっ、と睨み見ていた。羅喉はぐっと行き詰まり、視線をさ迷わせた。
「君がおれのことを良く思ってないのは知ってるけど――」
「むしろ、大嫌ぇだ!」と羅喉が即座に噛み付く。
「もっと仲良くしようよー。仲間なんだしー」
「いつもへらへらしやがって、ほえほえした空気で腹の中で何考えてるかわからん奴を信用できるか!」
「それ、良く言われるよー。けど、生まれつきなんだー。どうしようもないよー」
彼に何を言われても、どんな無礼な態度を取られても、冬緑は何時も軽く笑って受け流していた。自分に対する批判には、腹は立たなかった。
だが、そんな温厚な彼にも、決して言ってはならない事が一つだけあった。
けっ、と羅喉は吐き捨てるように言った。「とにかく、俺はお前が白だと認めてねぇからな!へらへらしやがって、本心から国を変えたいって気があんのかどうかも疑わしい」
その辺で止めておけ、という破暁の視線を無視し、「ついでに言っとくがな」と羅喉は続ける。「漢がおかしくなったのは、十一年前まで玄武帝お気に入りの踊り子だったお前の姉貴が、玄武帝をたぶらかしたせいだって噂もあるじゃねぇか。玄武帝が政治に目ぇ向けなくなったのも、後宮に美女集めて女遊びに耽り始めたのも、その姉貴がそもそもの発端だとしたら、お前はよく――」
最後まで言い終える前に、後頭部と背中に強い衝撃と痛みが走る。目の前で火花が散った。切れた唇に血が滲み、口中に広がる。うっ、と呻いて片目を開けると、間近で冬緑と視線がぶつかった。表情は相変わらず穏やかなのに、目はもう笑ってはいなかった。緑の瞳ははっとする程冷たく、何処までも暗い。
彼に胸倉を掴まれて壁に激突したのだと理解すると同時に、両端を鋭く尖らせた鉄製の棒の切っ先が心臓の位置に当てがわれているのに気付いて、羅喉はぎょっとした。
全員が息を呑んだ。
「仲間の心臓に風穴は空けたくないから、その話は止めにしない?」と冬緑は動きを止めたまま、静かな、猫撫で声にすら聞こえる口調で言った。
「止めるんだ冬緑!」破暁が叫び、二人の間に割って入った。「羅喉はちょっと気が立っているだけだ。許してやってくれ。羅喉、お前も言いすぎだぞ」
冬緑は羅喉から目を逸らさずにゆっくりと彼を放し、愛用の暗器である峨嵋刺を引っ込めた。羅喉は体勢を立て直し、強く掴まれていた襟元を不快そうに引っ張って整えた。
彼に決して言ってはならない事――それは、蝃蝀の悪口、取り分け燕緋の悪口だった。
「おれを内通者だと疑うのは構わない。尾行するなり監視するなりお好きにどうぞ。まー、そうした所で何も出て来やしないけどねー」
冬緑は冷ややかにそう言った。左手の中で峨嵋刺がくるくると回り、空気を掻き乱す。「おれの望みは皇帝をこの世から消し去ること。君達と目的は違っても、最終的に成すべきことは一緒だ。邪魔をして何になる?」
一人一人を順番に見てそう言うと、不意に、冬緑は顔を歪めて目線を床に落とした。黒髪がはらり、と目元に落ち掛かる。「玄武帝はおれの大事な物ばかり奪っていく………」
(君の心さえも………)
そう思うだけで、胸の傷が疼いた。しかし、次の瞬間には傷痕は高熱を帯び、全身に駆け巡った。
(そして、今度は蘭までも………!)
何故、蘭なのか。理由は考える間でもない。容姿と技芸が優れた若い娘であれば、誰でも良いのだ。燕緋の時もそうだった。燕緋の足が悪くなったのは事故じゃない。毒を盛られ、一命は取り止めたものの、後遺症で二度と踊れない身体になってしまった。そのせいで、皇帝に使い物にならなくなったと捨てられた。燕緋の心と身体を傷付け、今度は蘭にも同じ事をしようというのか。
(許さない。そんなことは………!)
冬緑の視線は何処までも冷ややかだった。氷、いや、静かに激しく燃え上がる炎が奥深くに垣間見える目だ。冷たさを感じさせる青い色の炎。しかし、色のイメージに反し、実際は赤い炎よりも高温である。冷静なようでいて、危険な色。彼が怒る時、そういうものを連想させられる。
冬緑はドンッ、と壁を殴り付けた。全員がびくっ、と肩を跳ね上げる。
「おれの目的を邪魔する奴は許さない。たとえ、そいつが信頼していた仲間であったとしても、ね」
誰もが無言だった。皆、淡々とした物言いと感情を消した顔とは真逆の彼の底知れぬ怒りと憎悪に満ちたオーラに気圧され、声が出せなかった。
破暁だけが、神妙に頷いた。「それは同感だな。裏切った時点で、そいつはもう仲間じゃない」