第三話 紅い烙印 (5)
六つになったアロドは、父親に良く似たくしゃくしゃの髪を持つ好奇心旺盛な子供になった。ジェイは毎日のように息子を発掘現場に連れて行くようになり、アロドも父親に連れられて其処へ行くのを楽しみにするようになっていた。当時、ジェイが所属するトレジャーハンターの一行が数年かけて発掘し続けていたのは、ビザンツ帝国のヴラヴローナ遺跡だった。紀元前五世紀頃に栄えた、女神アルテミスを祭った神殿と集落の跡である。小さなアロドにとって何もかもが珍しく、毎日が冒険だった。
「パーパー!これー!」
アロドは嬉しそうに声を張り上げて、掘り出されたばかりの壷を両手で頭上に掲げる。
ビシッ!
嫌な音と共に、壷に縦の亀裂が入った。かなり古い物である事も災いし、小さな手の中であっという間に粉々に砕け、欠片が地面に散った。
「あぁーっ!」と発掘仲間の一人が青ざめて叫んだ。
その叫び声に驚いたのと、力を入れたつもりはないのに折角見つけた遺跡の物を壊してしまったショックで、アロドの目にみるみる涙が盛り上がり、わんわん大泣きし始めた。
ジェイが駆け寄り、ひょいっと小さな身体を抱き上げた。大きくごつごつした手で朱毛の頭を撫でて慰める。
「よーしよし。本当は壊したくなかったんだよな。力加減がわからなかっただけだもんな。バカっぽくて可愛いぞー」
「お前の方がバカだよ………」
息子を抱き締めてデレデレしているその親馬鹿っぷりに、ジェイの一番の相棒であるトレジャーハンター仲間は呆れる。
先程叫んだ仲間の一人が粉々になった一欠片を拾って、眉間に気難しそうな皺を寄せた。
「おい。その問題児を連れてくるのはいい加減やめてくれ。この壷、保存状態良かったのに」
アロドは激しくしゃくり上げながら項垂れた。
ジェイは息子をしっかり抱き抱えたまま、「悪いな。修復できるか?」とばつの悪そうな笑みを浮かべて、済まなさそうに言う。
「できないことはないが……」と彼は仏頂面で答えた。
「そのくらい、お前ならすぐ修復できるだろ。いい腕してるからな」
「最初っから欠片の状態で見つかったと思えばいいさ」
他の仲間が口々に言い立て、豪快に笑った。一人がビスケットをアロドにやり、泣き止ませようとした。文句を言った男は軽く舌打ちし、ぶつぶつ言いながら壷の欠片を広い集める。
彼を始め、トレジャーハンターの中には未だ妖力を制御出来ないアロドを現場に連れて来ると嫌な顔をする者もいるが、ジェイと特に仲の良いメンバーは受け入れてくれていた。破壊される危険性と隣り合わせではあるが、大人顔負けの腕力は重宝がられたのだった。
「重いから気ぃつけろ。持てるか?」
「うん」
「足の上に落とすなよ?」
ジェイの心配を他所に、アロドは大人でも一人では運べないような重い石像を軽々と両手に抱えて運ぶ。到底有り得ない光景に、最初は誰もが口を開けて唖然としたものだが、もう見慣れてしまった全員の関心は、彼が壊さずに運び終えられるかどうかという所だけにあった。
横にぴったり張り付いて歩きながら、ジェイがしつこい位に声を掛ける。「そーっと、そーっとな。いいか、絶対壊したくない大事なモンを扱う時はだな、女性を扱うように優しく――」
「子供相手に、変な喩え方すんなよ」と傍ではらはらしながら見守る仲間の一人が、彼に白い目を向ける。
「いいぞ、こっちだ」
「そこでいいよ、アル坊。そっと置いて……ゆっくり……」
全員が固唾を飲み、手に汗を掻いて見つめる中、アロドは慎重に石像を指示された場所へ下ろした。
(こわさない、こわさない。ぜったい、こわさないぞ……!)
自分に暗示をかけつつ、大切な石像を地面に置く。手を離して一歩下がると、周りから拍手が沸き起こった。
「よぅし!どっこも壊さず運べたじゃないか!」ジェイが満面の笑みで、彼の頭をくしゃくしゃっと乱暴に撫でる。
「よくやったぞ、アル坊!」
「本当にどこも欠けてないんだろうな?」
「いやいや、心臓に悪いな」
初めは腕に力が入り過ぎて持ち上げた途端に粉々、なんて事もしょっちゅうだった為、仲間達は一緒になって喜んだり、疑わし気に石像を観察したりした。
次第に感覚で力加減を覚えるようになっていく息子を、ジェイは誇らしく思っていた。
「コイツはオレの助手だ」と事ある毎に息子の肩を叩き、仲間に自慢していた。
しかし、遺跡の近くに住んでいるのを良い事に毎日のように息子を連れ出す夫を、妻のサフィラは快く思っていなかった。
「ジェイ!貴方、またアルを現場に連れて行ったの?!」
その日も帰宅すると、彼女は開口一番叫ぶようにそう言った。
「また何か壊したんじゃ――」
「サフィラ」
ジェイは妻の話を遮り、アロドに手を洗ってくるように言ってその場から遠ざけた。息子が大人しく洗面所に行ってしまうと、彼は声を落として妻を説得する。
「遺跡の物は貴重だが、万が一、壊してしまっても仕方ないですむ。壊しちゃいけないとわかっている物で、力加減を学ばせないと意味がないんだ」
これまでに二人で妖力持ちの子を持つ親の話を聞きに行ったり、相談所に通ったりしたが、結局の所、慣れるしかないという印象を受けた。だから、彼は敢えて、アロドを積極的に発掘現場に連れ出すようにしていた。
それに対し、サフィラはなるべく外に出さないようにしていた。アロドが後から知った事だが、彼女は夫の勧めで精神科に通い、安定剤を飲むようになっていた。それでも、あまり効果があるとは思われなかった。彼女は何時も疲れた顔をして、目は不安そうに絶えず震えていた。息子や夫や自分が他人からどう思われるかを、酷く気にしていた。
彼女がアロドを連れて出掛けるのは、夫が仕事で留守の時に行く買い物だけだった。息子一人で留守番をさせるのは気が引けた。帰って来たら家が大破していた、などという事があっては大変だからだ。
だが、一緒に出掛けても、サフィラが彼と手を繋ぐ事はなかった。手を繋いだら、指の骨を折られるかもしれないと恐れたのだろう。今思い出しても、アロドには母親と手を繋いで歩いた記憶は無い。先に立って歩く彼女は頻繁に後ろを振り返り、息子が悪さをせずにちゃんと付いて来るかどうか確かめる。
二人で道を歩けば、良く目立つ朱い髪や目を見て、周囲がひそひそと声を落として陰口を叩く。店に入れば、幾らサフィラが気を付けていても、アロドがちょっと腕を引っ掛けただけで陳列棚や商品を壊してしまう。ヴラヴローナの村では直ぐに噂は広まり、破壊魔の問題児と悪い意味で有名人だった。
しかし、アロドには赤の他人の目よりも、母の目の方が気になった。母が余りにも不安そうな目で自分を見るので、他の物に気を取られそうになってもぐっと我慢し、その背中だけに付いて行くように気を付けたものだ。母の事が嫌いではなかったが、その目が怖かった。母に嫌われるのが怖かった。見捨てられるのではと思うと、何より怖かった。
二人して押し黙り、買い物に出掛けた昼下がりのある日の事。角を曲がった先に、ベビーカーを押す女性と幼い二人の子供がいた。
見覚えのある親子に「あれ?」とアロドが呟く。
彼とそう年の変わらない女の子が此方に気付き、「あ、力もちの子」と言った。
その子の母親が振り向き、二人に目を留めると愛想良く笑い掛けた。「あら、スタインカーンさん。アル君も。こんにちは」
「こんにちは、ラズウェルさん」とサフィラもぎこちなく微笑んで会釈した。
彼女は良く行くクリーニング屋の女店主だった。村では唯一と言って良い程、好意的にサフィラとアロドに話し掛ける人だ。その長女がフィーリアで、たまに母親に付いて店番に立ち、ませた口調で挨拶するのだ。前に一度、アロドがその店のカウンターに背伸びして手を掛けた拍子に壊してしまった時も、彼女は明るく笑って許してくれた。
『いいんです、いいんです。アル君、怪我しなかった?』
そう言って、青くなって謝り続けるサフィラを宥め、しゅんとなったアロドを優しく気遣ってくれた事があった。一部始終を見ていた幼いフィーリアも、『アンタ、どうやったの?』と非難するというよりは純粋に驚き、呆気に取られていた。心が広いというか、肝が据わっているというか、他の村人とは少し違う母子で、会う度にサフィラを戸惑わせるのだった。
カッサンドラ・ラズウェルは二人に挨拶しながらも、片腕に大きな袋を抱え、もう片方の手で泥濘に填って動かないベビーカーを何とか押そうとうんうん唸っている。
サフィラが見兼ねて、「手伝いましょうか?」と声を掛けた。
「まぁ、ありがとうございます。小麦粉が安かったものだから、つい買いすぎてしまって………」
見ると、彼女が抱えている他に、ベビーカーの下にも重い小麦粉の大袋が乗っている。柔らかな毛布の中では、フィーリアの末の妹のバジリアがすやすやと寝息を立てていた。
「ボク、持つよ」
「アル………」
サフィラは壊すかもしれないと止めようとしたが、アロドは小さな身体でベビーカーを泥の中から引っ張り出し、小麦粉の袋を二つ共腕に抱え持って手伝った。
「ありがとう、アル君。助かったわぁ」
「うん」
動くようになったベビーカーを押して、カッサンドラは空色の瞳をにっこりと細めた。その傍らを、まだ三つのダミアンの手を引くフィーリア、サフィラとアロドが歩く。僅か五、六歳の幼児が小麦粉の大袋を二つも軽々と両腕に抱えて歩くのを見て、道行く人々がぎょっとして振り返る。そんな周囲の視線も、サフィラ以外は気にしていない様子だった。
クリーニング屋兼自宅になっている建物の前に着くと、彼女は二人を中に招き入れた。
「うちに上がってお茶でも飲んでいってください。アル君にお礼にケーキをごちそうするわね」
「いいえ、そんな………」サフィラは遠慮し、直ぐにアロドを連れて立ち去ろうとする。「もし、うちの子がリアちゃん達に怪我でもさせてしまったらと思うと、気が気でなくて………」
「スタインカーンさん」とカッサンドラは温かい手で彼女の腕にそっと触れ、落ち着かせるようにゆっくりと繰り返した。「大丈夫。大丈夫ですから」
「入って。遊ぼう」とフィーリアが、母親の様子をこっそり窺っていたアロドを家に引っ張り込んだ。小さな弟が大声を上げながらその後に付いて行く。
「あ、ちょっと!アル!待ちなさい!」
「いいんです、いいんです。ゆっくりしていらして」とカッサンドラが背中を押し、今度はサフィラの方が半ば強引に家へ入れられた。
あれよあれよという間に、二人はテーブルに座らされてしまった。紅茶と手作りのバナナケーキが振る舞われ、皆でテーブルを囲んでお茶の時間となった。サフィラは気まずそうに紅茶のカップに口を付けたが、アロドは大喜びでケーキに齧り付いた。サフィラはあまり料理が得意ではない為、アロドはこうして母親におやつを作って貰えるフィーリア達がちょっぴり羨ましく思った。
赤ん坊を寝かし付けて戻って来たカッサンドラが、子供用のカップにミルクを注ぎながら言った。「アル君が来てくれて、本当に助かったわ。うちは男手が足りないものだから……父さんが仕事で家にいないことが多いのよ」
「パパ、なんのおしごとしてるの?」
「ほしのけんきゅう」とフィーリアはケーキをフォークで切り分けるのに夢中になりながら、アロドに言う。
カッサンドラが子供達にミルクのカップを配り、サフィラの向かい側の椅子に腰を下ろす。
「アル君のお父さんは、トレジャーハンターなんですってね。一緒に発掘しに行くの?」
「うん。きのうもいったよ」
「そう。宝物は見つかった?」
アロドは拙い言葉で話し始めた。父や父のトレジャーハンター仲間以外の人と、こういう話をするのは初めてだった。サフィラは複雑そうな表情をしていたが、止めはしなかった。カッサンドラは時々、相槌を打ちながら、楽しそうに聞いている。フィーリアも興味を引かれたように、熱心に話に聞き入っていた。
「こんど、リアもおいでよ。パパ、いいっていうから。きっと」
「アル………」
サフィラは咎めるようにそう言ったが、フィーリアは「行ってみたい!」と身を乗り出した。その遣り取りを、カッサンドラはにこにこしながら眺めていた。
アロドは夕方までフィーリアやダミアンとたっぷり遊び、母親達は心行くまでお喋りに花を咲かせた。
帰る時、久し振りに同年代の女性とお喋りをした為か、暗かったサフィラの表情に少しだけ明るさが灯っていた。
「ごちそう様でした。それと……ありがとうございます。色々と」と彼女は小さく微笑んで言った。
「こちらこそ、今日は本当に助かりました。またいらして下さいね」
カッサンドラが笑顔で二人を家の前で見送り、フィーリアとダミアンが「バイバイ」とアロドに手を振る。
「バイバイ」
アロドも手を振り返し、母親を見上げた。彼女は幾らか和らいだ瞳で、彼を見つめ返した。
「帰るわよ」
「うん」
二人で並んで、夕焼けの空の下を歩く。手を繋いではくれないけれど、小さく笑ってくれたのが嬉しかった。アロドが知る限り、初めて見る母の笑顔だった。
これを切欠に、サフィラはアロドに外で遊ぶ事を許すようになった。前向きなカッサンドラと交流する内に、少しずつではあるが不安や恐怖が和らぎ、落ち着きを取り戻し始めているようだった。
それを無下にする事件が起こったのは、アロドが九つになる頃だった。彼が近所の公園でフィーリアと遊んでいると、学校の苛めっ子のグループがやって来た。
その一人が、ブランコに乗っている二人を指差して叫ぶ。「うわー!アロドとあそんでやがんの!」
「知らねーの?そいつといるところされるぞ!」
「オレ、お母さんにこいつとあそんじゃダメっていわれてるよ」
「おれも」
「ぼくも」
「なんでもめちゃくちゃにこわすもんなー」
「あくまの子だって。みんないってるぞ!」
「やめなさいよ!」
「いいよ、リア」
囃し立てる苛めっ子達に、フィーリアがブランコを漕ぐのを止めて怒鳴った。アロドの方は、何時もの事なので我慢し、唇を固く引き結んだだけだった。
ところが、その日はしつこく絡んで来た。破壊魔だの問題児だのと騒ぎ立てるのに腹を立てたフィーリアが、目尻を吊り上げて彼らに歩み寄った。
「アルはそんな子じゃないんだから!うるさいからあっちにいってよ!」
「なんだよ、おまえ。年下のくせになまいきだな!」
「アンタたちこそ、年上のくせにバッカみたい!妖力持ちにイジワルなことは言っちゃいけないって、こないだ先生も言ってたわよ!」
同じ年頃の子供との間でこういう言い合いになると、彼女に敵う者はいない。
「うるせーな。お前に関係ないだろ?じゃまなんだよっ!」と一番体格の大きい男の子がフィーリアを両手で突き飛ばした。
「いたっ!」
「リア!」
アロドはブランコから飛び降り、尻餅を着いた彼女に駆け寄った。苛めっ子達は彼を避けて、笑いながら遠ざかって距離を取る。
「へいき」とフィーリアは擦りむいた手をぱんぱん叩いて泥を落とす。手には薄く血が滲んでいた。
それを見たアロドは、朱色の目を険しく細めて彼らを睨んだ。「何すんだ!あやまれよ!」
だが、彼らは怖がるふりをしてせせら笑うだけだった。
「わーっ!怒ったぞ」
「怪物が怒った!」
「こえーっ!逃げろぉ」
口々にそう言って、ゲラゲラ笑いながら駆け出す。
アロドの中で何かが切れた。ブランコの横にあった低い柵に手を伸ばすと、いとも簡単に地面から抜き取り、彼らに投げ付けた。柵は子供達の上を飛び越え、行く手を阻むようにその前に落下した。
ガッシャーン!!
苛めっ子達の足が止まった。目を皿のように見開き、地面に半分減り込んでひしゃげた柵を穴の開く程見つめた。恐る恐る振り返ると、全員の顔が恐怖で真っ青になった。
「アル………?」彼の直ぐ隣に立つフィーリアも、掠れた声を出した。
アロドは怒りに震えていた。全身から放たれる殺気が、肌にビリビリと伝わって来る。苛めっ子達がやり過ぎたと悟った時には、もう遅かった。
怒りに任せ、彼は手当たり次第に遊具を引っ掴んでは投げ飛ばした。苛めっ子達は悲鳴を上げて逃げ出そうとしたが、逃げた先々に遊具が落ちて来て、とうとう逃げ道を塞がれてしまった。
アロドは遊具から折り取った鉄の棒を手に、フィーリアを突き飛ばした男の子に近付いた。声を嗄らして叫びながら逃げ回る相手に追い付き、棒を振り下ろした。ボキン、と嫌な音が鳴った。
「ぎゃああああー!」
相手の子は激痛に泣き叫び、その場に膝を着いた。尋常ではない泣き方に、アロドははっと我に返った。夥しい血が土を真っ赤に染め上げる。両腕が変な方向に曲がり、砕けた骨が見えていた。
「あ……あぁっ………」彼は鉄の棒を取り落とした。自分のしてしまった事に驚き、顔色を失う。
誰もが絶句し、この惨劇を作り出したアロドから後退った。フィーリアでさえも、恐れ戦いた目を向けていた。痛い痛いと咽び泣くその声を聞き付けた大人が駆け付けるまで、誰もその場から動く事が出来なかった。