第三話 紅い烙印 (6)
アロドは自分の部屋のドアに背を預けて蹲っていた。階下から母が甲高く何か叫ぶ声と、それを宥める父の低く落ち着いた声が交互に聞こえる。
母は恐れていた事が起こったと嘆いた。今までも他人から心無い言葉を散々言われて来ただけに、今回の事件は彼女がこれまで必死に堪えていたものを爆発させた。これで息子はいよいよ化け物扱いされるだろう、自分は化け物を産み出した上にちゃんと仕付ける事も出来ない駄目な母親だと罵倒されるだろう、と泣き崩れた。
産まない方があの子の為になったかもしれない。そうすれば、相手の子も、貴方も、私も、あの子自身も、誰も傷付かなかったのに。
母が父にそう言っているのを、アロドはドア越しに聞いてしまった。
(オレは産まれてこない方がよかったんだろうか………?)
恐る恐る両手を目の高さまで持ち上げ、じっと見つめる。自分はこの手で人を傷付けた。いや、殺しかけた。下手をすると殺してしまったかもしれないのだ。
あの時は、殺そうなどとは少しも思っていなかった。唯々、自分を庇ってくれたリアにまで手を出された事が腹立たしく、悔しかった。その感情だけが脳にこびりついていて、妖力が暴走していた時の記憶はすっかり抜け落ちている。だが、全て自分がやった事なのだ。全て自分のこの力のせいなのだ。我に返った時の、皆が自分を見つめる目。リアまでもが、怪物を見るような恐れ戦いた目付きで自分を見ていた。
何て、恐ろしいものを持って産まれて来ちゃったんだろう、とアロドはぼんやり思った。
(こんな力さえなければ、リアがオレをかばうこともなかった。あの子に大怪我させることもなかった。みんなに怖がられることも、パパに迷惑かけることも、ママを失望させることもなかったのに………!)
朱色の目にじわりと涙が盛り上がる。それを袖で乱暴に拭い、彼は膝をきつく抱えて顔を押し当てた。
産まれて来なければ良かった。こんな化け物みたいな力があるなら、産まれて来なければ良かった。ママ、どうしてオレを産んだの?
永遠にも思える時間が過ぎた頃。急に、コツコツ、と控え目なノックの音がして細くドアが押し開けられ、凭れ掛かっていた背を軽く押された。
「アル」父の声がした。「おいで。あの子の家に謝りに行こう」
アロドはのろのろと立ち上がった。父の後に付いて階段を降りる。台所の傍を通ると、泣き疲れた母がテーブルに突っ伏しているのが見えた。息子の視線に気付いているのかいないのか、顔を上げて此方を見る事もなく、身動き一つしない。
母をそのままに、二人で玄関を出た。アロドは憂鬱な気分で父の横に付いて歩き始める。
すると、二人を待ち構えていたかのように小さな影が目の前に飛び出して来た。
「おじさん!」
天然パーマの長い金髪を靡かせて駆け寄って来たのは、フィーリアだった。
「アルは悪くないの! アルは……わたしが突き飛ばされた仕返しをしてくれただけで、悪いのはアイツなの! けがしたのだって自業自得っていうか、アイツがアルの悪口言ってきたのが悪いんだし……。だから、アルが謝ることなんてないの!」
彼女は空色の瞳を潤ませて父にしがみ付き、謝りに行かないでと必死に訴えた。
父は彼女の目の高さに合わせて屈み、「ありがとう、フィーリアちゃん」と小さな頭に手を置いて微笑んだ。「あの子が悪いのはわかった。だけどな、どんな理由があっても誰かに怪我をさせるのは、おじさんは良いことだとは思わない。あの子もフィーリアちゃんやアルにしたことを謝るべきだろうが、それならアルだって怪我をさせたことはちゃんと謝らなきゃいけないんだ」
彼女の目から涙が溢れた。
父はもう一度彼女の頭を撫でて立ち上がり、息子の肩を押して歩くよう促す。
アロドは涙をぽろぽろ溢すフィーリアを、黙って見つめていた。彼女はもう自分を怖がってはいない。何時ものように、自分を弁護してくれている。友達だと思ってくれている。そう知って、彼の不安が一つ溶け去った。
「リア………ありがと」溢れ落ちそうになる涙を堪えながら、アロドは小さな声でそう言った。
肩を震わせて静かに泣き続ける彼女を残し、父子は行くべき場所へと歩き始めた。
相手の子の親から怒りを打ちまけられ、散々皮肉を言われても、ジェイはひたすら謝り続けた。アロドは言葉少なに頭を下げるしかない父を見て、胸がつまった。自分だけでなく父まで罵声を浴びせられ、頭を下げなければならないのが悲しくて、情けなくて堪らなかった。
帰り道、ジェイはすっかり悄気返ったアロドを遺跡近くの考古学博物館に連れて行った。ショーケースに並べられた出土品の中には、アロドが運ぶ途中で壊した物もある。継ぎ目ははっきりわかるものの、どれも綺麗に修復されていた。
「この壷、覚えてるか? 壊してわんわん泣いてたっけな」
「………」
「この像はちゃんと運べたもんな。これも、こっちも。アルがたった一人で運んだもんな」とジェイはショーケースへ目を向けたまま、誇らし気に呟いた。
アロドは拳を固く握り締めて俯き、声を絞り出した。「オレ、もう発掘現場には行かない。もう妖力は……一生使わない」
暫し黙り込んでから、ジェイは「それは困るなー」と溜め息と共に苦笑する。「オマエがきてくれなくなると、パパは困る」
アロドはむっとして、上目遣いに父を睨み見た。「オレが行かなくたって、代わりはいくらでもいるよ。重い物を運ぶのなんて誰でもできるし、機械でやったっていいんだし」
「あのなー」とジェイは頭を掻きながら、困った風に言った。「オマエの役割は重い物を運ぶことだけじゃない。パパはオマエと親子一緒に発掘するのが楽しいんだ。パパの息子はオマエだけで、オマエの代わりは誰もできねーんだよ」
それにな、と彼は続けた。「重い物を運ぶのなんて誰でもできるとオマエは言ったが、オマエがいとも簡単にこなせることは、他の人間一人の力では逆立ちしたってできねーことで、凄い能力なんだぞ」
「すごくなんかない!」とアロドは初めて父に向かって怒鳴った。「力持ちだから何なんだよ?! そんなの何の役にも立たない。オレはこの力のせいで人に怪我させたんだ! 化け物だって言われたし、オレだって自分でそう思ってる! こんな力、ない方が良かったに決まってるのに!」
「アル――」
「それをすごいだなんて、勝手に言わないでよ! オレの気持ちも知らないでさ! 妖力持ちじゃないパパにはわからないんだっ!」
そう言った途端、アロドは後悔した。
ジェイは一瞬、面のように無表情になり、そしてふと寂し気に笑い掛けた。「ごめんな。わかってやれなくて。代わってやりたいけど、代わってやれない。オマエの人生を代わりに歩いてやることはできないんだ」
アロドはくしゃりと顔を歪めた。父にそんな顔をさせるつもりはなかった。傷付けるつもりはなかったのに。
涙を見せまいと下を向き、彼はぽつりと呟いた。「オレは産まれてこない方がよかったんだよね?」
ジェイは絶句し、目を見開いた。
「だって、ママがそう言ってた……」
「アル、それは言葉の意味をはき違えている。ママがそう言ったのは……オマエが妖力持ちなのは自分のせいだとママが思っているからだ。妖力持ちとして産んですまない、辛い思いばかりさせてすまない、とママは思っているんだよ」
その言葉にはっとして顔を上げたアロドの両肩を掴み、ジェイは優しい声音で言う。「パパもママもオマエを愛している。だからこそ、ママはオマエがよそで悪口を言われるのをとても悲しんでいるんだ。本当はそんな子じゃねーと知っているからな」
「違う……違う、そんな風に思ってほしいんじゃない! ママのせいじゃないからっ! 悪いのはオレなんだ! 全部、全部オレが悪くて、ママは何も悪く……謝ることなんか………」
アロドは激しく首を横に振り、咽び泣いた。頼むから、もうオレのせいで誰も傷付かないで。誰もオレのせいで自分を責めないで。傷付くのも責められるのも、オレ一人でいいから。
声を上げて泣く彼をジェイがそっと抱き締め、「産まれない方が良かった命なんて、この世にはひとっつもねーんだぞ」と背中を擦る。
「アル、オマエもそれ以上自分を責めるな。自分を許してやれ」
無理だ、そんなの。心の中でそう呟き、アロドは父の胸に顔を押し付けてしゃくり上げた。
「妖力の制御はちゃんとできてるよ。できてるさ。ただ、頭にくると抑えられなくなるみてーだってことが今回わかっただけだ。アル、もう二度と力を暴走させたくないか?」
アロドは黙って頷いた。
「なら、オマエは怒ってはいけない。怒りたくなってもひたすら感情を押し殺して堪えるか、それができなきゃ逃げてもいい。感情を爆発させて力を暴走させるくらいなら、怒りの対象から逃げろ」
どんなに難しい事を強いているのか知りながらも、ジェイは息子に言った。妖力持ちである以上、それを受け入れなければ前には進めない。力を制御する事を覚えたら、今度は感情を制御する事を覚えなければならない。
「人より優れた力を持つ者は、その代償を支払わなきゃならない」
「代償?」
「ああ。オマエにとってのそれは、“怒らないこと”だ。大人だって、それを身につけるのは難しいことだけどな。でも、それさえできるようになれば、オマエの持つ力はとても素晴らしいものなんだぞ。オマエほどの力持ちが他にいるか? どれだけパパが発掘現場で助けられたことか。パパだけじゃない。オマエの力に助けられた人は、きっと他にもいるはずだぞ?」
力強くそう言ってぱっと表情を輝かせた父を見て、アロドはフィーリアの母、カッサンドラを助けた時の事を思い出した。
『ありがとう、アル君。助かったわぁ』
優しい声と微笑みが、脳裏にはっきりと浮かぶ。そうだ、悪い事ばかりじゃない。この力があったから、あの人の役に立った。ありがとうって言ってもらえた。
朱の瞳に淡い光が戻る。ジェイはアロドの頭に手を置き、ぽんぽんと軽く叩いた。
「パパは……オマエならきっとできるようになると思ってるからな」
(そう言われたこともあったってのになー)
雑貨店の壁を修理しながら物思いに耽っていたアロドは、長々と溜め息を吐いた。我慢する事を覚えたつもりだった。我慢出来ない時は逃げろ、と自分に言い聞かせて来たつもりだった。なのに、それを忘れ、危うく力を暴走させる所だった。
(あん時、リアを連れて厨房に逃げればよかったんだよなー……アイツらから逃げるってのはしゃくだけど)
そうすれば、誰も何も傷付けずにハーヴィー達から守れたのに。結局、またリアを心配させて泣かせただけだ。ガキの頃から何も変わっていない。
「手が止まってるぞ」
聞き慣れた、鈴を転がすような美声がした。アロドが驚いて振り返ると、悪戯っぽく微笑む蘭と目が合った。後ろにはフィーリア、柾、ルミエル、冬緑もいる。
「手伝いに来たんだー。皆でやった方が早いと思ってー」冬緑がにこにこと言った。
「オマエら、宿探しに行ったんじゃ………?」
「ええ。もうとっくに見つけて、荷物も開いたわ」とフィーリアが無い胸を得意気に反らした。「さっきの茶館にいた発掘者のおじさんが、良い宿を紹介してくれたのよ」
「アルのお父さんのこと、よく知ってるって言ってたよ」とルミエルが口を挟む。
「お前が生まれたばっかりの頃に、お前についての自慢話を散々聞かされたとも言ってたな」と柾も付け加えた。
アロドの胸に熱いものが込み上げて来た。離れているのに、また父に助けられた気分だ。いつでも受け止めてくれた優しい父。母も、高校に上がる頃には徐々に受け入れてくれるようになり、今は精神安定剤からも離れて自然に笑うようになった。写真も撮るようになったし、家族三人で発掘現場に行くようにもなった。
妖力持ちとして産まれて来ても、受け入れてくれる家族と仲間がいる。この力を憎む事もあるけれど、この力が誰かの役に立つ事もある。コイツはオレの一部だ。コイツと上手く付き合っていく為にも、オレは怒ってはいけない。どんなに理不尽でも、それがオレの支払うべき代償だから。
「ほら、早く終わらせちまおうぜ」
蘭が明るく言い、五人も修理作業に加わったのだった。
舞を見においで。
そう蘭に言われたのは、例の悪魔憑きの本を買って来た翌日の事だった。ルミエルは本を大事に抱えて宿屋を出た。本からは煙草の煙のように細い黒煙が、絶えず流れ出ている。
古本屋で青い表紙の本を棚から抜き取り、掌に載せた途端、鼠の悪魔を封印していた瓶のコルク栓がポケットの中で罅割れた。あっという間に黒煙と化してその隙間から出て来た悪魔は、彼の手にある本の頁の中に溶け込んだ。ルミエルは再び邪気を放ち始めた本を不快そうに見つめたものの、悪魔を封印し直そうとはしなかった。宿主であるこの本さえあれば、ここから逃げる事は無いからだ。
『前の持ち主がどんな人だったかわかると、やりやすいんだけど』
店の老爺に代金を支払いながら、ルミエルは蘭がそう言っていたのを思い出した。
「あの、これを売りにきた人ってどんな人でした?」
駄目元で聞いてみると、眠た気な目をした店主は面倒臭そうにこう答えた。「さぁ……そんなこと、いちいち覚えておれんよ。かれこれ四、五年はそこの棚にずっとあるからな」
「そうですよね………」
蘭から予め聞いていた場所へ向かいながらその会話を思い出し、ルミエルは小さく息を吐いた。悪魔を消滅させるには、悪魔が生まれた理由を知る必要がある。つまり、誰のどんな感情が元になっているのかを知る必要がある。持ち主がわからず、この本にどんな執着があったのかも不明のままで、この悪魔を消し去る事は出来るのだろうか。
そう問うと、彼女はこう言った。その分、お前が悪魔の心を開かせなきゃならないな、と。
(でも、一段階の悪魔だしなぁ)
悪魔は四段階以上にならなければ、人と会話が出来無い。しかし、彼女が言うには、宿主が物であれば邪気を辿って持ち主の感情に触れる事が出来るらしい。それが出来れば、一段階の悪魔相手でも己の神力で言葉を引き出せるという。
(簡単な方だとは言ってたけど、ぼくにもできるんだろうか………?)
考えれば考える程、自信を失っていく。蘭が手伝ってくれると言っていたが、こんな方法は彼女だからこそ出来る技なのではないか。幾ら、自分にも神力が備わっていると言っても、二人の力量は雲泥の差だ。
どんどん傾いていく気持ちを抱えながらも、彼は暑い暑い日差しの下、本通りへと足を進めた。通りの片隅の開けた場所には、人が沢山集まっていた。その中心には蘭(いや、今は胡蝶だ)と冬緑がいて、道行く人々に舞と二胡の音を披露している。背の高い群衆に阻まれて近付けず、やや離れた所で立ち止まって人と人との間から彼女の舞を覗き見た。
彼女は直ぐに此方に気付いてくれた。目が合うと微笑み、くるりと回りながら左手を差し出す。掌から吹き出した黒い煙が、竜に形を変えて彼の元に飛んで来る。
「来たなァ、能無しのチビ助」
ニタニタ笑いで挑発して来る火球を、ルミエルは鼻を鳴らして睨み付ける。「おまえこそ、何で出てきたのさ?」
「だから、お前は能無しなンだよ。俺を身体から出したッてことは、あいつがお前のために神力を使ッてやるッてことだろゥが」
はっとして、ルミエルは彼女を見た。袖を翻して舞う彼女の周りでは、光の蝶が舞い出していた。この町の死した魂が招き寄せられ、浄化されていく。神力を使い始めたという事だ。
彼女の力が背中を押してくれるのがわかった。ルミエルは本を彼女の方へ捧げるようにして持ち、目を閉じた。この場を満たし始めた温かな神力に己の神力を重ね合わせる。
しかし、「ちョい待ち」と耳元で火球の低くぞっとするような声がして、集中が途切れた。
「何なんだよ。邪魔するなよ!」
小声で文句を言うと、彼は「恨むなら自分の運の悪さを恨むンだな」と別の方向へ顎をしゃくった。そこには、黒尽の風変わりな恰好をした三人の男がいる。
「あの人達がどうしたのさ?」
「捕吏だ」
「捕吏?」
一瞬だけ顔を顰めたルミエルは、それが何であったか思い出してどきりとした。
(蘭をつかまえにきた人達だ!)
悪魔を消滅させるどころではない。おろおろする彼とは対照的に、火球はこの事態を面白がっているようだった。
「じャあな、栗坊主」
そう言い残し、火球は彼女に知らせに飛んで行く。
(誰が栗坊主だっ!)
取り残されたルミエルは、ふるふると肩を震わせて怒りを押し殺した。
(悪魔なんて大っ嫌いだ。絶対に、絶対に消滅させる技を覚えてやる。何年、何十年かかってでもいい。いつかきっと、悪魔のいない世界にするんだ……!)