第四話 ムガルの踊り子 (4)


 興行を終えた(ラン)は舞台衣裳から普段着に着替えてアムリタ達と別れ、ルミエルと宿に戻った。踊りの種類が変わっても蘭の舞は人を惹き付けるものがあるらしく、一度の舞台で稼いだ金額は相当なもので、彼女の取り分もまた(しか)りであった。
 悪魔消滅に失敗した事をまだ引き()っているルミエルを、彼女は自分の部屋に連れて行って休ませた。フィーリアは男性陣の部屋で資料探しをしているらしく、部屋には誰もいなかった。
 勧められた木の椅子(いす)にしょんぼりと腰掛け、ルミエルは胸の奥から()め息を()いた。「やっぱり、ぼくには無理なんだ。力がまだまだ足りない」
 帰り道に屋台で買った石榴(ざくろ)ジュースを二人分のコップに注ぎながら、「そうじゃないさ」と蘭が温かい声を掛けた。
「そうだよ!」
 ルミエルは目を怒らせて叫んだ。(なぐさ)めなんて要らなかった。ただただ、自分の力不足を、蘭との技量(レベル)の差を痛感して悔しかった。無性に腹が立って仕方無かった。
 彼女は(しばら)く無言で、彼に視線を注いだ後、「その本貸して」と手を差し出した。
 気怠(けだる)そうにしながら、彼が(ひざ)の上に載せていた悪魔が宿る本を渡すと、彼女はそれを部屋の(すみ)にある棚の中に仕舞った。それだけで、効果は覿面(てきめん)だった。ルミエルの中の説明出来ないような苛々(いらいら)した気持ちが、春の雪のようにすうっと解けて消えていった。何であんなにむしゃくしゃしていたんだろう、と自分でも不思議な位、すっきりした気分になった。あの(ねずみ)の悪魔に影響されていたに違いなかった。
「少しは落ち着いたか?」
「うん。あの………怒鳴ってごめん」ばつが悪くなり、彼は(ちぢ)こまって蚊の鳴くような声を出して謝った。
 いいんだ、と蘭は微笑んだ。ジュースのコップを彼に渡し、彼女はもう一脚の椅子を引き寄せて座った。ゆっくりとコップに口を付けると、ルミエルに静かに問い掛ける。
「神力を使ってる時、何を考えてた?」
 ルミエルは虚を突かれ、相手の顔をまじまじと見つめた。「何をって………悪魔を消そう、消そう、って。自信はなかったけど、できるんだって自分に言い聞かせて………」
 蘭の表情は変わらなかった。思い違いをしている弟を(たしな)めるような、困ったような微笑みを浮かべている。
「違うの?」彼は不安になり、おずおずと訊いた。
 彼女はそれに対して、否定も肯定もしなかった。「ルーは悪魔が嫌いか?」
「大嫌い」と彼は眉毛を立てて、きっぱりはっきりと返答する。
「だろうな」蘭は小さく吹き出した。「なら、お前の大嫌いな悪魔は何から生まれる?」
「人間の感情」彼女が何を言おうとしているか、ルミエルは薄々気付き始めた。
「人間は嫌いか?」
 更なる問いに、彼は目を()せて暫し考えた。やがて、そっと目を開け、頭の中で考えを(まと)めながらぽつりぽつりと話し出す。「嫌いじゃない。ひどいことする人にも嫌なことばかり言う人にもたくさん会ってきたけど、優しくしてくれて大切に想ってくれる人もたくさんいる。家族も、ラファエル師匠も、ゲイブ兄弟子(にいさん)も、アロドも、フィーリアも、(まさき)も、冬緑(トンリュー)も、それに、蘭も。だから、人間は好きだよ」
 ぎこちなく、しかし、はっきりと自分の考えを述べたルミエルに、そうか、と蘭は笑みを深くする。「“人間は好き”だけど、“人間の感情から出来ている悪魔は嫌い”なんだな?」
 彼の表情が面のように固まった。痛い所を突かれた。その言葉で、今まで受け入れられなかったものと正面から向き合わされた思いがした。
「だって、悪魔と人間は全然別なものだよ! 元は同じだとしても!」
「別物だよ」蘭はあっさり肯定した。「違う点はいくらでもある。悪魔は生き物じゃないから、命も魂もない。実体もない。狡猾(こうかつ)で周到で貪欲で、人間を(おとしい)れることだけを考えている。人間には善人もいるけど、善い悪魔は存在しない――挙げるとキリがないな」と彼女は笑い声を立てた。「けど、それだけで本当に“人と違う”と言うことはできるか?」
 不意に真面目な表情に変わった彼女の顔を映したルミエルの栗色の瞳が、皿のように大きくなった。
 彼女は更に続ける。「悪魔ってのは、本来、消せるものじゃない。消そうとか追い出そうとすればする程、逆に奴らは心の中に入り込んでくる。人間は耳を(ふさ)ぎたがる。認めたくなくて排除したがる。悪魔は忘れられまいとして、尚更、心に入り込もうとする。それを防ぐには、いっそ受け入れた方がいい」
「受け入れる? 悪魔を? そんなこと、蘭にしかできないよ。普通は、言いなりになったら利用されちゃうだけだし」
「言いなりになれとは言ってない」蘭は悪戯(いたずら)っぽくにやりとした。「悪魔の声は聞いてやれ。でも、言うことには従うな」
 ルミエルにはその言葉の意味がわからなかった。「どういうこと?」
「悪魔の存在自体を否定することと、悪魔の言葉を否定することは大違いだ、ってことさ。悪魔を敵に回そうと思えば、いくらでもできる。けど、敵じゃないと思うことだってできるんだ。そうすれば、奴らもこっちに手出しできなくなる。なぁ、火球(カキュウ)?」
 蘭が肩越しに声を掛けると、見る間に彼女の背後が黒煙で(おお)い尽くされた。其処(そこ)から突き出した竜の頭は、苦々しい表情を刻んでいる。
「お友達(ヅラ)してるだけで悪魔が手出しできねェと本気で思ってンのか? 相変わらず甘ェ人間だよなァ、お前も」
「どうも」怒りを押し殺し、皮肉を込めた声音(こわね)で言われたにも関わらず、蘭はにっこりと笑みを返しただけだった。
 火球は舌打ちし、「褒めてねェ」と吐き捨てる。
 二人の様子を(なが)めながら、ルミエルは蘭が言った事について考えを(めぐ)らせた。蘭は火球に対して負の感情を抱かない事で、悪魔の力が増幅するのを防いでいるのかもしれない。とすると、彼が鼠の悪魔に対してしていた事は、逆にそいつの力を増幅させていた事になる。
 彼は(うつむ)き、両手に握り締めた冷たい石榴ジュースのコップを(のぞ)き込んだ。美味しそうな赤い色。しかし、おぞましい悪魔の瞳と同じ色でもある。その水面を見つめながら、「悪魔を受け入れる………ぼくに足りないのは、それ?」と口の中で(つぶや)く。
 蘭は空になったコップを小さな卓の上に置き、「あたしはな、ルー」と灰色の目を柔らかに細めて話し始めた。「あたしは、悪魔と人間は同じものだと思ってる。その悪魔を受け入れることは、その悪魔の元になった人間の感情を受け入れること。人間の感情を受け入れることは、その人間を受け入れることだ」
「悪魔と人間は同じ………。この本の持ち主を、受け入れる………」
 難しい話だった。わかりそうで、全ては理解出来ない。
 そう言えば、前にも確か、蘭はこう言っていた。『お前が悪魔の心を開かせなきゃならないな』と。悪魔に心は無いから、“心”というのは(たと)え言だ。そうわかっていたから、余り深く考えていなかった。だが、それは悪魔を手懐(てなず)け、威力をもって()じ開けるという意味では無かったのだ。悪魔が教えてくれる気になるように、自らも相手に敵意を持たず、心を開くという事なのだ。
 そう(さと)ったルミエルは、視線を本が入っている棚の方に向けた。
「あれを悪魔だと思わないようにしてもいい?」と彼は考えながらゆっくりと言葉を(つむ)ぎ出す。「悪魔だって思うと、どうしても身がまえちゃうから。あのネズミは悪魔じゃなくて、本の持ち主だった人の心。そう考えてもいい?」
「いい考え方だ」蘭は太陽のように明るい笑顔を見せて、(うなず)いた。「ところで、本の中身を読んでみたか?」
 ルミエルは首を横に振った。「言葉がわからないからまだ。後で、フィーリアに教えてもらって読んでみる」
「そうすると良い。どんな本かわかれば、持ち主の年齢や性別が推測できる場合もあるからな。それと――」
 蘭は話の最後に、ヒントとなる疑問を投げ掛けた。「どうして、その悪魔は鼠の姿をしているんだろうな」と。


 遺跡についての資料探しに没頭する内に、すっかり日が暮れた。今宵の空は所々に雲が浮かんで星を隠しているものの、淡い黄色に輝く三日月が街を照らす良夜であった。
「オレやっぱさー、ラワク遺跡に行っとくべきだと思う」
 頭の後ろで手を組んで壁に(もた)れ掛かって立ったアロドが、隣で同じように手持ち無沙汰(ぶさた)に突っ立っている柾に話し掛けた。「ラワク遺跡はさ、この辺りじゃ尉遅(うつち)王族の墓って言われてるらしいからな。手がかりになるモンがそこにあるかはわからねーけど、資料を調べているうちに思ったんだ。尉遅派の壁画を探すんだから、もっと尉遅について知っとかねーといけねーなって」
 柾は無表情で目の前の石壁を見据(みす)えたままだった。「その遺跡はどこにあるんだ?」
「この街の北側の砂漠。距離から言うと、わりと近いぜ。ただ、また車だけじゃ行けねートコにあるから、途中からラクダに乗らなきゃなんねーけど」
 後頭部にやった手を胸の前で組み替え、アロドは珍しく難しい顔をする。
 少しして、柾が肩の力を抜くと共に口を開いた。「お前が行きてえなら、そうすりゃいいじゃねえか。リアも別に反対してなかったみてえだしな。どこにあるか、そもそも本当に存在しているのかすらわからねえもんを探してんだ。気になるもんがあったら、当たり外れなんか気にしないで調べりゃいい」
 目を合わせるでも無く淡々と話す彼の横顔を、アロドは(おぼ)れ掛けた所を助けられた子犬のような目で見遣(みや)った。
「そっか………そうだよな! うん!」と彼は(にわか)に元気になった。「皆に話して、明日さっそく行ってみよーぜ!」
「声がでけえよ」柾は相手の側の耳を塞ぎ、横目で(にら)む。
 わりぃわりぃ、と声を落としたアロドに、柾は静かに溜め息を吐いて、「それは良いが………」と別な話題を振った。目を固く(つぶ)った彼の眉間(みけん)に一本、また一本と(しわ)が寄り出し、()り上がった眉がぴくぴくと痙攣(けいれん)し始める。「今更何だがよ………何故、お前がここにいて俺と同じ仕事をしている?」
 苛立ちを(こら)えた声音に対して、アロドの答えは呑気(のんき)なものだった。「仕方ねーだろ。給仕したり厨房で雑用するより、警備係やる方がオレには向いてんだ。きっと」
 今、彼らがいるのは于闐(ホータン)のとある酒場で、二人して警備員として勤務中なのだ。洋風の凝った造りの店内には、流行りの服装をした若い客が多くを占め、(にぎ)わっている。(いく)つも重なる人の(ざわ)めき声と食器が立てるかちゃかちゃいう音、ゆったりと心地好い音楽がその場を満たしている。
「その上、あいつらまでいるし」と柾は今度はカウンターの方へげんなりした目付きをくれた。
 フィーリアと冬緑は暗い色合いのかっちりした制服に身を包み、蝶ネクタイをしている。カウンターでシェーカーを振る彼を、銀の盆を小脇に抱えた給仕係のフィーリアを含め、女性客が恍惚(うっとり)と眺めていた。
「緑くん、似合うわね〜。板についてるって感じ」フィーリアがカウンターに頬杖(ほおづえ)を突いて、惚れ惚れと言った。
「前にもこういう仕事やったことあるしー」さらりと返した彼は、完成したカクテルを客に出してから、こっそりと彼女に(ささや)いた。「お客さん帰ったら、リアにも一杯(おご)るよー」
 (たちま)ち、彼女は両手を握り締め、恋する乙女宜しく頬を林檎(りんご)色に染めた。「きゃあ、嬉しいっ! お酒あんまり飲めないけど、緑くんが作ってくれたのなら飲む〜」
 柾の視線を追ってその様子を目にしたアロドが、「なーにネコかぶってはしゃいでんだか」と冷ややかな低い声を出す。
 柾は苛々とこめかみを()んだ。毎日毎日顔を突き合わせている面子(メンツ)がこうも(そろ)っていては、仕事がやりにくい事この上無い。それを避ける為に、一人単独で働き口を探したというのに、何故か(ふた)を開けてみるとこいつらがいたのだ。今日一日だけならまだしも、発掘の場所がまだ決まっていない以上、当分の間、この生活が続きそうだ。彼は短い黒髪を()(むし)りつつ、蘭がいないだけまだマシだと自分に言い聞かせたのだった。


 翌朝、アロドはフィーリアと柾、ルミエルと共にラワク遺跡へと向かった。ルミエルは直前まで行くのを躊躇(ためら)ったものの、最後は一緒に行くと決めた。
 一方、冬緑は丁重に辞退し、「蘭が最近仲良くしている旅芸人の人達に、一度会っておきたいなー」などと言い出した。
 蘭は「過保護だっての」と若干、というかあからさまにうんざりしたようだったが、渋々承諾した。そんな訳で、この兄妹とは別行動を取る事になり、四人だけで出発したのだった。
 何時(いつ)も乗り慣れている車のハンドルをアロドが握り、フィーリアとルミエルもそれに乗り込む。駱駝(らくだ)を積んだトラックも昨日と同じ所から借り、此方(こちら)は柾が運転して先導する三人が乗る車に続く。
「さーて、行くか!」
 アロドが上機嫌で車を発進させようとして、ふと気が付いた。助手席が空っぽだ。何時も誰か座っている席だけに、誰もいないと何だが変な気分になる。
 彼は思わず後ろを振り返った。「リア、後ろでいいのか?」
「うん。ちょっとやることあるから」彼女は青い本を開いてルミエルと眺めながら、やや上の空で言った。「車、出していいわよ」
「あ、そ」とアロドはつまらなそうに口を(とが)らせ、前に向き直った。「車酔いしても知らねーぞ」
 車が動き出す。目的地は街から北東へ六十キロ程の砂漠の中にある。砂漠の道に出るまでの街中の舗装(ほそう)された道路を余裕で運転していると、後部座席から何やら相談する二人の声が聞こえた。アロドは耳を(そばだ)てた。
「どう?」
「ん〜と………お話の本みたいね。子供向けというより大人向けの。()し絵もないし」
「お話?」
「ええ。西域説話集(さいいきせつわしゅう)って所かしら」
 アロドはそわそわし、バックミラー越しに二人を見た。「何の話してんだ?」
「ルッちゃんが買ってきた本よ。全部この土地の言葉で書かれてて読めないから読んで欲しいって言うんだけど、わたしもスラスラとはいかないからなぁ〜」と辞書を片手にフィーリアが答える。
 二人は熱心に本と辞書とを見比べ、ああだこうだと話し合っている。仲間外れにされた気分になったアロドが会話に入り込もうと合間合間で口を(はさ)んでいると、最終的には「アンタは黙って運転に集中してて」とフィーリアにきっぱり言われてしまった。
「へーい」彼は少々しゅんとして、寂しさを(まぎ)らわせようとラジオの音量を上げた。
 やがて、道が無くなり、砂漠へ入った。車で進めなくなる所まで来ると、小さなトラックの荷台に乗せていた三頭の駱駝を降ろし、それに乗り換えて進む。駱駝の背の上でも、ルミエルとフィーリアは翻訳を続けていた。一頭に二人で乗り、気温の高さに(あえ)ぎながらも、それぞれ本と辞書とを見せ合って議論している。
 今回の駱駝の旅はそれ程長くはなかった。到着したラワク遺跡には誰もいなかったが、管理が行き届いていて、見学し(やす)い様に木の通路が組まれている。四人は駱駝から砂の大地に降り立ち、遺跡を見渡した。
「これがラワク遺跡かー」アロドは好奇心一杯に朱色の目を輝かせた。
「どんな些細(ささい)なものでもいいから、何か見つけたら教えてね」とフィーリアが全員に言い、アロドに続いて板を敷いた道に足を踏み入れた。
 尉遅王族の菩提寺(ぼだいじ)と伝えられているこの遺跡に残る建物は、円筒状の仏塔だ。その周りに三メートル弱の内壁が残っていて、沢山のレリーフが刻まれている。フィーリアがその一つ一つを繁々(しげしげ)と観察する。ルミエルが仏塔の裏側に回ってみると、所々彩色された壁画を発見した。木の階段を登り、下を覗いた柾が見つけたのは、部屋の一角のような場所に安置された仏像のようなものだった。頭部は失われ、状態は余り良くない。通路から奥へは入れないようロープが張られている為、近くで見られないものもあるが、それぞれが思い思いに調査をした。
 塚のような土の小山を調べていたアロドは、違う所も見てみようと視線を別の方角へ向けた。その時、ふと何かが視界の隅に入ったような気がした。塚に目を戻してじっくり見ると、表面が凸凹(でこぼこ)している箇所がある。ロープから身を乗り出し、顔を近付けて見る。その正体は、小さな彫刻だった。何かの生き物、そう、小動物を(かたど)ったような。
(これ、どっかで見たことある気ぃする………)
 彫刻を指でなぞりながら記憶を辿るが、思い出せない。つい最近だと思うんだけどな、と彼は首を(ひね)って考えた。


     
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