第一話 懐かしき調べ (5)


 その日の昼過ぎ。(ラン)は宿屋の部屋で、ベッドの上に舞の衣装を広げていた。開いた窓から流れ込むそよ風が衣装を撫でると、香の香りがふうわりと(ほの)かに漂った。
「わぁ………素敵」大柄の花模様が染め抜かれた絹の上衣を、フィーリアが惚れ惚れと眺める。
 蘭は上機嫌で、「久し振りに(トン)兄の二胡で舞えるからな〜。取って置きの衣装じゃないと」と歌うように言った。
 少しでも稼いで旅費の足しにするべくこれから広場で舞おうとしていた蘭がもう一度二胡を弾いてくれないかと頼むと、彼は「いいよー」と(こころよ)く応じてくれたのだ。蝃蝀(テイトウ)を出て以来、自らの歌のみで舞う方が多かった彼女にとって、音楽に合わせられる、それも聞き慣れ踊り慣れた兄の演奏となると嬉しさも一入(ひとしお)、俄然気合いが入るというものだ。
 ベッドの端に頬杖を突いていたフィーリアが、顔を上げた。「(リュー)くんって、蘭がいた遊芸団………えっと、テイトウだっけ?二年ぶりに会ったって言ってたけど、その前はずっとそこで二胡を?」
 ああ、と蘭は懐かしそうに目を細めた。「興行の時は団長と冬兄が二胡弾くんだ。歌とか踊り担当のあたしと燕緋(エンヒ)姉と薔薇(ショウビ)以外は、皆楽器弾けるけど、団長から二胡習ったのは冬兄だけ」と蘭は肩を(すく)める。 「団長の一番弟子ってのもあって可愛がられてたし、ああいう緩い感じで面倒見いいから妹や弟にも懐かれててさ。でもある日、いきなり蝃蝀を抜けるって言い出してさ。びっくりしたよ。何でって問い詰めたら、『そろそろ一本立ちしてもいい頃かなーと思って』だって」と蘭は冬緑(トンリュー)の口真似をし、不満気に唇を(とが)らせる。
「そりャ、嘘だな」
「ひゃっ?!」
 出し抜けに、背後から地を()うような低い声がして、フィーリアはびくっとして一声上げた。振り向くと、彼女の真後ろに蘭の身体から染み出た黒い煙がとぐろを巻いていた。
「お、おどかさないで!」火球(カキュウ)から二歩三歩と後退しつつ、彼女は怒鳴るように言った。
 火球は何も答えず、じろりとフィーリアを見下ろし、空色の瞳を(のぞ)き込んだ。この世のものとは思えぬ、不吉な血の色をした目で。
 何よ、という反論の言葉が(のど)の奥で凍り付く。目を()らしたいのに、逸らせない。心の中を舌で()め回すように探られているような、気味の悪い感覚がする。思い出したくない嫌な過去の断片が、次々にくっきりと浮かび上がって来る。離れていく手。泣き崩れてテーブルに突っ伏す母の姿。暗い夜道を一人歩く自分が見ている、混沌(こんとん)とした風景。 胸の悪くなる記憶の渦に巻き込まれ、頭がぐらぐらする。心が静かに押し潰されるように()えていき、体温が急激に下がっていくのを感じた。
「火球!」蘭が声を荒げた。
 火球は鼻に抜ける笑いを()らし、興味が失せたように彼女から目を(そむ)けた。
 すると、奇妙な不快感がすうっと消え去った。フィーリアは悪夢から覚めたようにはっとして、ゆっくりと(まばた)きした。
 蘭が申し訳無さそうに眉をハの字にし、謝った。「ごめんな。こいつも悪気はない………ってことはないし思いっきり悪意あるけど、根はいい奴でもないし、あ〜もう!全っ然フォローできねぇ奴だな。とにかく、ごめん」
「え………ええ………」
 フィーリアは困惑気味に返事をした。まるで、うちの犬がお騒がせしてすみませんというような口振りである。到底ペットとは()け離れた存在であるのだが。火球は恐ろしい。あの目に見つめられると、嬉しい事も楽しい事も消し飛ばされて、悪い記憶のみが頭の中で強調されるような感じがする。
(どうして……この子は平気なの?こんな恐ろしい悪魔と……火球と平気で話せるの………?)
 まだ小刻みに震える腕を撫で、フィーリアは不思議そうに蘭の横顔を見た。悪魔と対等に話し合える彼女は、どう考えても普通ではない。しかし、彼女自身を恐ろしい存在だとは感じない。それどころか、今まで出会った誰よりも一緒にいて安心出来るような気がする。何故だろう。どう(たと)えて良いかわからない。まるで、まるで………。
「で、あれが嘘だって言うなら、本当の理由は何なんだよ?」と蘭が火球に訊く。
 フィーリアは一瞬何の事かわからなかったが、すぐに冬緑の話をしていたのだったと思い出した。
 火球は下劣な笑い声を立て、「さァな。本人に直接訊いてみたらどうだ?」などと言う。
「何だよ、話の腰折っといて………」蘭は疲れたように窓の傍の壁に寄り掛かった。
 その窓の外で、バサバサと羽音がした。かと思うと、一羽の(はやぶさ)が窓枠に降り立つ。
 蘭はそれを予測していたかのように驚きもせず、「なぁ、残雪(ザンシェ)?」と首だけ回して声を掛ける。
 急に同意を求められ、残雪は左右に首を傾げてぱちぱち瞬きしながら彼女の顔を見た。
 彼女はよしよし、と残雪の頭頂部の白い羽毛を撫でる。「いい所にきたな。これを団長に持ってってくれ」と手紙を取り出して見せる。「あのクソ馬鹿兄貴を捕まえたから言いたいことあったら伝えるよ、って書いてあるからな。団長も説教の一つや二つしたいだろうよ」
 心得た、という風に残雪は一声鳴いた。
 フィーリアは目を丸くし、隼を指差して訊く。「この鳥が手紙を運んでくれるの?」
「そ。残雪って言うんだ」水を入れた皿を窓辺に置きながら、蘭は答えた。「こいつは野生の隼なんだけど、団長が飼ってるようなもんなんだ。団長の言うことはよく聞くし。団長の妖力は、動物と意志疎通できる力だから」
 蘭は静かに水を飲む残雪を、優しい表情で眺めて続ける。「残雪のお陰で、あたしと蝃蝀は繋がっていられる。勿論、冬兄も手紙で連絡取り合うって約束で、団長が渋々一人立ちを同意したのに………」
「連絡しなかったってワケね」
 フィーリアが苦笑し、蘭は小さく溜め息を()いた。
 急に、残雪が鋭く鳴いて騒ぎ出した。二人が其方(そちら)へ目を戻すと、残雪と火球が睨み合っていた。
「鳥公の分際でよゥ」と火球がニタニタ笑いで言うと、残雪も負けじと羽毛を逆立て、翼を広げて威嚇する。
「鳥にも悪魔って見えるのね………」と両者の(せめ)ぎ合いを遠巻きに眺めて、フィーリアが感想を洩らした。
「その辺にしとけ、火球。ほら、残雪も。ここはペット禁止なんだ。鳥飼ってると思われたら、追い出されちまう」蘭は二匹の間に入って、火球を遠ざけた。
 残雪の足に(くく)り付けられていた包みを(ほど)き、代わりに手紙を括り付ける。包みの中身はぎょっとする程真っ赤な瓶詰(びんづめ)――极光(チーコウ)手作りの激辛辣油(ラーユ)だった。 フィーリアは「これは………食べ物?」と口の端を引き()らせたが、蘭は「懐かしい!ありがとう、极母さん!」と大喜びで迷わず食料袋に仕舞い込んだ。
 空へ飛び立つ残雪を見送り、窓を閉めた蘭はいそいそと身支度を始めた。慣れた手付きで衣装を着付けると、フィーリアに髪結いを手伝ってもらう。
 鏡の前に座って長い髪を()かしてもらっている蘭の様子を盗み見た火球は、しめしめとほくそ笑んだ。他愛無いお喋りをして笑い合う彼女達は、此方に気付いていない。彼はこっそりと部屋を抜け出した。

 冬緑は彼女達の部屋のドアと向かい合う格好で壁に背を預けて立ち、蘭が着替え終わるのを待っていた。待たされるのは苦ではないらしく、苛立ちや退屈そうな素振りは微塵も無い。普段通りの穏やかな、女ならば誰でも見惚(みと)れてしまいそうな表情で、彼は床に置いた二胡のケースをぽんぽんと軽く叩く。蘭の頭にしたような、愛情深い仕草だった。
 突然、どす黒い煙の塊が部屋の中からドアを通り抜けて来た。それが竜の首を突き出し、赤い二つの目が此方を見下ろすのを、彼は黙って見ていた。
 先に口を開いたのは火球の方だった。「よォ。相変わらず良い邪気出してンなァ?」
「君も相変わらず、蘭にまとわりついているみたいだねー」冬緑はにっこりと言った。
 火球は愉快そうにクックックッ、と喉を鳴らす。「俺を見ても大してビビらなくなったとは、だいぶ心が悪魔(コッチ)よりになってきたなァ。お前、蘭に大きな隠し事があるだろゥ?その胸の奥に大きな企みが見えるぞ」
 冬緑は微笑みを崩さず、無言を貫いた。心中を見抜かれている事に、今更驚きはしない。火球の事は、蘭と義兄妹になった時から知っている。
民丰(ミンフォン)で新しいお友達と待ち合わせしてンだろゥ?俺もその計画、手伝ってやろうかァ?」
 そう耳元で(ささや)かれ、不意に、冬緑の顔から表情が消えた。考え込むように視線を下げ、深い緑の瞳をつ、と細める。自分の心は(すで)に地に()ちている。悪魔に魂を売った所で失うものは無いかもしれない。むしろ、その方が早く確実に事を成し遂げられるのではないかとも思えて来る。
「でも、君はあの子と契約中だ。二重契約はできないんじゃなかったかい?」
「だからよォ」と火球は猫撫で声を出した。「取引しようってンじゃねェ。文字通り、手伝ってやるって言ってンだ。対価はいらねェ。契約じゃねェからな」
 冬緑は耳を疑い、(わず)かに目を見開く。「対価は要らない………?それで君に何の利点がある?」
「利点がどうとかじゃねェ。お前の心意気が気に入ったンだよ。今あるモンをブッ壊して新しいモンを手に入れ、憎い“アイツ”に復讐もしたいンだろゥ?俺と組めば、お前が期待してる以上のことが叶うぜェ。どうする?悪魔は一度やると決めたことは守るぞ」火球は赤い瞳を三日月のように細め、毒々しくも甘い言葉を囁く。
 何かが可笑(おか)しい、と冬緑は思った。悪魔が対価を要求せずに願いを聞き入れてくれるなど、そんな事があるのだろうか。彼の言う事を鵜呑(うの)みにするのは、利口ではないだろう。しかしそれは、心を揺り動かされずにはいられない提案だった。
 自分がやろうとしている事は不可能では無いにしても無鉄砲である事に変わりは無く、危険を伴う。既に、仲間を何人も失っている。もし、悪魔の力を借りる事が出来るなら、そういった不安も危険も解消されるのかもしれない。
 冬緑は(あご)に手を当て、(しば)し考えに(ふけ)った。
 火球が更に誘惑の言葉を並べようとした時だった。

 ガチャ………………ッ。

 ドアノブが回り、細くドアが開いた。その隙間(すきま)から蘭が鬼の如き形相を半分覗かせ、「お前という奴はぁぁぁ………!」と呪詛のように言うのと、火球が舌打ちしたのはほぼ同時だった。
「戻れぇぇぇ………今すぐ………!」
 火球はニタリと笑い、考えておけよという一瞥(いちべつ)を冬緑に投げると、主の中へ消えた。
「っとに、油断も隙もあったもんじゃないぜ」
 腰に手を当ててぶつぶつ言う蘭の姿を、冬緑は言葉も無く見つめた。(あで)やかな舞の衣装に着替え終えた彼女は、ボーイッシュな格好の先程よりもぐんと大人びて見える。赤を基調とした身体の線に沿った細身の上衣とスカート。膝裏まで届く長い髪をハーフアップにし、緩めのお団子に結い上げている。火球に文句を言う言葉遣いは普段通りの(いささ)か粗野なものではあるが、動作は控え目で品良く映った。 昔からそうだが、彼女は衣装を(まと)うとスイッチが入り、人格も身の(こな)しも上品なものへと変わる。しかし、彼が記憶していた印象とは違うものが今の彼女にはあった。それは、火球との会話を一時忘れさせられる程、衝撃的な発見だった。
 視線に気付いた蘭が「どうかしたか?」ときょとんとする。
 彼はほろほろと目を和らげて言った。「燕緋に似てきたなーと思って」
 それを聞いた彼女は軽くショックを受け、さーっと顔色を変えた。「に、に、似てる訳ないだろ!」
 姉妹と言っても血の繋がりはないのだから、顔立ちは逆立ちしたって似る訳が無いのだ。
 顔の造作のことじゃないよ、と冬緑は笑う。彼が言いたいのは、ちょっとした指先の仕草や滑るような優雅な歩き方や目の配り方といった事だった。燕緋に立ち居振舞いや礼儀作法を叩き込まれているからこそであるだろうが、それにしても似過ぎている。一度見た舞を直ぐ様真似て舞えるという天性を持っているこの子は、姉の所作(しょさ)までも無意識の内にコピーしてしまったようだ。完璧なまでに。 何よりもはっとさせられるのが、目だ。瞳の動かし方もそうだが、瞳自体も似ているように思える。燕緋の一所に留まらない不思議な瞳とはまた違うものの、蘭の瞳も一種の不思議さを秘めているのだ。色の変化が印象に深く刻まれる燕緋に対し、蘭は目力とでも言うべきか奥深い所に神秘的な何かを感じさせる。どちらも、謎めいた瞳を持つ所が似通っている。一番に()き付けられるのが目である所が、特に。
 マントを持って出て来たフィーリアが、「あら、嬉しくなさそうね?あんな綺麗なお姉さんに似てるって言われてるのに」と首を傾げる。
「う〜ん、複雑」蘭は額に手を当てて(うな)った。
 似ているのが顔でないとすると、益々憂鬱(ゆううつ)になる。姉のあの性格や女王様オーラなんかがそっくりだと思われているならば、全く喜ばしい事ではない。
 一応褒め言葉として受け取っておくよ、と彼女はテンションがた落ちで小さく息を吐く。
 マントを羽織ると、蘭は気を取り直してフィーリアに明るく声を掛ける。
「んじゃ、行ってくんね」
「行ってくるよー」と冬緑もにこにこと片手を振る。
 フィーリアは彼の微笑に淡く頬を染め、「行ってらっしゃ〜い!」と笑顔で手をぶんぶん振った。
 二人の姿が廊下の奥に消えると、「さて、わたしも一仕事やっとかないと」と彼女は独り言ちた。きらりと不敵に目を光らせ、フィーリアは隣の部屋――男性陣が泊まる部屋に向かった。

 冬緑と宿を出た蘭は広場に向かう道すがら、彼に聞こえないよう心の中で念じ、気になっていた事を火球に問い掛けた。
(冬兄とこそこそ何話してたんだ?)
 火球は蘭の腹の底でくつくつ笑いながら、答えになっていない答えを返す。「俺ァ、あいつ好きだぜェ。元から旨そうな邪気を出す奴だったが、暫く見ねェ内に量が倍になったなァ。いや、倍以上かァ………」
(……………)
 蘭も気付いてはいた。悪魔が出すような強い邪気ではないが、契約をしていない普通の人間にしては強い邪気が彼から洩れ出している事に。殺気にも似た混沌としたものだった。
(ったく。何考えてんだかな………)
 蘭は半歩先を歩く兄の背中を見上げた。何とも言い様のない不安が、心の奥底でのそりと身を(よじ)った。


     
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