第二話 交錯する想い (2)


 露店が所狭しと(ひし)めき合う市場(バザール)は、美味しそうな匂いと活気に(あふ)れていた。炭火で肉を焼く屋台の香ばしい煙。料理屋の店先のスープ鍋から立ち上る湯気。何処(どこ)からか民族楽器の軽快な旋律(せんりつ)が聞こえて来る。瑞々(みずみず)しい野菜や果物を売る店もあれば、色取り取りの豆やドライフルーツを量り売りする店もあった。
 (ラン)とルミエルが談笑しながらシシカバブ屋の前を通り過ぎようとすると、(まさき)がふと足を止めた。まるで、魔法に掛かったようにふらりと近付き、真剣な表情でじぃーっと屋台を観察する。
 羊の肉を(さば)いて手際良く串を打つ女の横で豪快な火の手が上がり、もう一人が食欲をそそる(かお)りと煙に包まれてシシカバブの串を焼いている。何本もの串を束ねて持ち、引っ()り返しながら手早く焼き上げる様子は、何時(いつ)まででも飽きずに見ていられそうだ。
 見入っていると、店の男が串を焼く手を止めずに顔を上げた。「兄さん、いくついるの?」
 彼が口を開こうとしたその時、「柾ー?どこ?」とルミエルの呼び声がした。
 彼がいない事に気付いた二人が、人混みを()き分けて此方(こちら)に戻って来た。
「何やってんだ?」と訊いた蘭は、柾の興味を()き付けた物を知って(たちま)ち呆れ顔になった。さっき、朝食を食べたばかりなのに。
 柾は彼女の白けた視線を無視し、迷う事無く店主に言った。「そうだな、三十本くれ」
 その数字に蘭は耳を疑い、目玉が飛び出しそうになった。「一桁多いだろうがっ!三本でいいだろ三本で!」
 柾は不満そうに口を曲げ、頭一つ分程小さい彼女を見下ろす。「それだと、一人一本しか当たらねえだろ?」
「それで十分だ!」
「今更、何小食ぶってんだよ」
「お前が過食症なだけだっ!」
「それで?兄さんがた、いくついるの?」(しび)れを切らして、店主が口を挟んだ。
「三十本」
「三本!」
 二人の声が重なった。
 男は困って、「そんじゃ、間取って十本にしといたら?もう焼けるから」と面倒臭そうに言い出す。
 即、蘭が異議を唱える。「ちょっと待て。それのどこが間なんだ?」
 市場の片隅で、ぎゃあぎゃあと口論は続く。三本だ、いいや三十本だ、いや十本にして早いとこ帰ってくれ後ろで次の客が待ってる等と不毛な応酬(おうしゅう)
 それまで黙って(なが)めていたルミエルがはぁ、と溜め息を()いた。これでは、何時まで経っても此処(ここ)を動けない。
 彼は互いに譲らない二人の脇を()り抜け、店の前に進み出た。「十本ください」
「へい、まいど」
「え、おい!」
 蘭がぎょっとしてルミエルを見ると、彼は串焼きの包みを受け取って「はい」と一本を彼女に渡し、自分用にもう一つ取ると残りを全部柾に渡した。
 柾は若干(じゃっかん)顔を(しか)めたものの、一本しか当たらないよりはいいと思い直したのか大人しく包みを手に取った。一本を口に(くわ)えると、「お勘定宜しく」と蘭を置き去りにルミエルの背を押して歩き出す。
「何であたしが――」
 反論し掛けて、彼女ははたと気付いて口を(つぐ)んだ。
(金銭管理してんのあたしじゃん!)
 浪費家三人から所持金を没収し、一昨日からは彼女が金銭管理の役目を追う事になったのだ。つまり、柾は一文無しだった。
 代金を、と手を出す店主に、蘭は止む無く支払った。
(くそっ、また無駄遣いを………)
「どうした?不景気な顔しやがって。一本じゃ足りねえのか?」
 涙を呑んで支払いを済ませ、二人に追い付いた蘭に、柾は全く的外れな事を言う。
「違う!いいよ、そんなに食べれないって」と彼女はもう一本差し出されたシシカバブを突き返す。
 串焼きは焼き立ての熱々で、三人はふうふう吹いて冷ましつつ食べた。蘭とルミエルが一本を食べ終える頃に、柾は八本全て平らげていた。その上、「次はあれにしよう」と別の屋台へ足を向ける始末。
 黒漆(こくしつ)の刀を腰にぶら下げた軽い足取りの後ろ姿に、蘭は頬をひくひく痙攣(けいれん)させた。朝食を鱈腹(たらふく)食べた上、長い串焼きを八本食べたのに、彼の腹はちっとも重くならないようだ。あの男の胃袋はどういう構造になっているのだろうか。
 蘭は生唾(なまつば)をごくっと飲み込み、ルミエルに言った。「ルー、あいつまさか……市場中の食べ物屋台制覇する気じゃないだろうな?」
「ぼく、もうお腹いっぱい…………」うぇ、と彼は舌を出した。
「あたしも、これ以上付き合わされたらあっという間にぶくぶく太っちまう…………」
 彼女がそう言うや否や、身体の周囲から黒煙が細く噴出して左肩の辺りに集まり、ニタニタ笑いを広げた火球(カキュウ)の顔が現れた。
「おデブの胡蝶(コチョウ)かァ。ヘヘッ、見物だぜェ。折角の上等な衣装が、全部着れなくなッちまうなァ。帰ッたら、姉貴に何て言われるか」
 途端、彼女の脳裏に燕緋(エンヒ)(あざけ)るような高笑いが響く。

『まぁ、呆れた。どうしたらそんな体型になるのよ?芸名を胡蝶から“小猪(シャオジュ)〈コブタ〉”に変えた方がいいんじゃないかしら。そんな姿で私と同じ舞台に立てると思ってるの?こっちが恥ずかしいわ。蝃蝀(テイトウ)美人四姉妹の面汚しよ。すぐにダイエット始めなさい。二週間で元に戻らなかったら許さないわよ』

极光(チーコウ)も黙ッちャいねェよなァ。張り切ッて“アレ”を作ッてくれるぜェ」

『あらあら、大変ね。大丈夫よ、蘭ちゃん。ダイエット薬膳作ったから、これを毎日食べればすぐに元の体型に戻れるわ』

 次に聞こえて来たのは、ほやほやした微笑みの极光が食べ物とは思えない色と独特のつーんとした匂いを放つ(かゆ)を差し出して穏やかに(なぐさ)める声だった。あの粥……効果は覿面(てきめん)だが、この上無く不味いあの粥を、极光がうふふ、と笑いながら鼻先に突き出す。蝃蝀にいた頃は、妹達の見た目がほんの(わず)かでも丸くなると燕緋から減量命令が下され、毎食この薬膳を食べさせられたものだ。女は見た目が命、という姉の独断的支配によって。
 火球は言いたいだけ言うと、下品な笑い声を残して蘭の中に消えた。
 蘭は青ざめてぶるぶる震え上がった。「ぐわぁあああっ!悪魔が、悪魔の声が聞こえる!」
「どうしたの?蘭、火球の言うことに負けちゃダメだよ!」
 ルミエルがキャスケットの上から頭を抱えて耳を(ふさ)ぐ彼女の腕を引っ張って揺さ振り、現実に連れ戻そうとする。
「いや、火球よりもっと恐ろしい悪魔がぁ!大悪魔の声が二つ聞こえる!」
 蘭が心の中の燕緋と极光の薬膳と戦って身(もだ)えしていると、柾が怪訝(けげん)な顔付きで二人の方に戻って来た。
「お前ら、さっきから何やってんの?そんな所に突っ立ってたら邪魔だ。早く来い」
 そう言うなり、彼はキラーンと焦げ茶の目を光らせて冷菓の屋台を指差す。「暑いから、次は冷たい物にしようぜ」
 ルミエルがあんぐりと口を開けた。「もう十分食べたでしょ?!お腹壊すよ!」
「心配するな。まだいける」
 柾がしれっと言い放つので、蘭はきっ、と(にら)み付けて負けじと言い返す。「心配なのは、財布の中身とあたしの肥満予備軍の危機だっ!」
「ほう。そんなこと気にしてんのか」柾はにやりとして、瞳にからかいの色を浮かべた。「お前は細すぎるから、ちょっとは太った方が健康的だぞ」
「嫌だぁ!小猪になっちまう!」
「シャオジュって何だ?」彼は首を傾げたが、蘭は青くなって嫌々と首を激しく横に振るばかりで答えない。
「ルーは成長期だから、余計食った方がいい」
 急に矛先を向けられ、ルミエルは頭と両手をぶんぶん振った。「えー?!もうムリだよ!お腹いっぱいだもん」
「そうだよ、せめてこっちを巻き込むな!食いたきゃ一人で食え!」
「一人で食ってもつまんねえ」
 そう言って冷菓の屋台へ行こうとする柾を、蘭とルミエルが両脇から押さえ込んで必死に行かせまいと踏ん張る。しかし、筋骨(たくま)しい彼の身体は二人掛かりでも押さえられず、逆にずずずっ、と屋台の方へと引き()られるばかりだった。
 柾は向きになって騒ぎ立てる二人が面白くて(たま)らず、こっそりと(のど)をくつくつ鳴らした。
(こいつらはからかい甲斐があって面白えんだよな。葉月(はづき)みたいだ)
 蘭とルミエルは特に、期待を裏切らない反応をしてくれるから(いじ)め甲斐があるのだ。故郷に置いてきた妹の反応と似ていて。
 道の真ん中で騒いでいる三人は、相当目立っていたに違いなかった。そうでなくとも、蘭は目立つから尚更である。女の子らしい服装でなくとも化粧をしていなくとも、藍色に光る髪筋が、吸い込まれそうな大きな瞳が、匂い立つ桜色の肌が否応無しに人目を引くのだから。
 買い物をしていた若い女も、その一人だったのだろう。騒ぎを耳にして不意に顔を向けた彼女は、視界に自分と同じ年頃の元気一杯な娘の姿を(とら)えるなり目を真ん丸に見開いた。
「蘭…………?」
 背後から驚きに(かす)れた女の声で呼び止められ、蘭の動きがぴたりと止まった。柾の腕にしがみ付いたまま用心深く振り向くと、見覚えのある顔が彼女を見つめていた。
茉莉(マオリ)!」蘭も驚いて声を上げる。
「わぁ、蘭!しばらくぶりねぇ。銀針(ギンシン)、蘭がいるよぅ」と茉莉は近くの店から出て来た若い男に手招きした。
「銀針も!こんな所で会うなんてな」
 蘭は二人に駆け寄り、太陽のように明るく笑った。
 銀針は片手を上げて合図し、彼女の名を呼ぼうとした。「あぁ!こちょ――」
「しぃいいいっ!」
“胡蝶”と芸名で呼んでしまう所だったのを、蘭と茉莉が一斉に指を唇に当てて制する。
「ごめん、うっかりしてたよ。蘭だったね」
「本名と芸名の使い分け位、そろそろ慣れてよぅ。長い付き合いなんだからぁ」
 茉莉に言われ、彼はばつが悪そうに声を落として謝ると、丸顔ににっこりと微笑を浮かべた。
 茉莉と銀針は珠香(シュコウ)舞踏楽団のメンバーで、昔から蝃蝀芸術団と交流のある遊芸人仲間だ。踊り子の茉莉は蘭と同い年で、器量は十人並みだが夢見るようにとろんとした真っ黒の瞳が愛らしい。同色の髪は高く結い上げて(かんざし)で留めてあり、細面には舞台仕様の(あで)やかな化粧を(ほどこ)していた。 銀針は冬緑(トンリュー)の二つ上で、ややぽっちゃりした体付きをしている。こんがり日焼けした肌に短い黒髪と全体的に色素が濃いが、瞳だけは薄茶色だ。肉厚で一見不器用そうな手は、同じ琵琶(びわ)奏者として妹の玉兎(ユイト)が羨ましがる程に玄妙な音律を奏でる。
 唐突に蚊帳(かや)の外に追い遣られた柾とルミエルは、再会を喜ぶ三人を遠巻きに眺めていた。
「蘭の知り合いかな?」とルミエルが柾に耳打ちする。
「さぁな。服装からして旅芸人のようだが」彼は二人の地味なマントの下から派手な舞台衣裳が覗いているのに気付いて、そう答えた。
(同業者の集会か……長くかかりそうだな)
 そう察知した柾は、女性用のショールを売る屋台の裏にある胡楊(こよう)の木を指し、「三十分後にそこな」と蘭に声を掛ける。
「知道了〈わかった〉」彼女は上機嫌で頷き、また後で、と手を振った。
 柾はルミエルを連れてその場を離れ、市場の更に奥へと進んで行く。
 それを見ていた茉莉が口元を緩めて蘭を小突いた。「なになに〜?あの二人。旦那と息子ぉ?」
「んな訳あるか。大体、子供にしちゃデカすぎんだろ?あたしがいくつの時の子だよ」と蘭は渋面を作る。
「うふふ〜。冗談よぅ、冗談」彼女はおっとりした口調で言い、怒らないでと蘭の腕に自分の腕を(から)ませる。
「旅仲間だよ。なりゆきで一緒に旅してんだ」
 短く説明すると、「ってことは、蝃蝀の新入り?」と今度は銀針が訊く。どうやら、蘭が芸団全員でこの町に来ていると思ったらしい。まぁ、冬緑だけはいる事はいるのだが。
 蘭は歯切れ悪く答える。「いや、そうじゃないんだ。実は――」
 彼女は二人に蝃蝀を離れた事情を手短に説明した。漢帝国で活動する同じ業界の者同士なだけに、話はすぐに通じた。
「へー。美女狩りから逃れてきたのか」と銀針は意外そうに眉を上げた。「珠香(うち)の踊り子も二人、半年前に宮廷にしょっぴかれたよ」
「そうなのか?なら、今は踊り子は茉莉だけなんだな」
 蘭がそう言うと、彼女は寂しそうに笑った。無理も無い事だ。三人いた踊り子が、馬鹿好色家皇帝の気紛(まぐ)れのせいで一気に一人に減ってしまったなんて。
 ふっくらした銀針の顔に不安が(にじ)み、緊張した声音で蘭に言う。「断るなんて、よくやるね。ヤバくないのか?皇帝のやることは絶対だろう?逆らうとどうなるか………今の国の状態を考えると、何されるかわかったもんじゃないし」
「その……あたしにも譲れない事情が………」と蘭は言葉を(にご)した。
(悪魔と契約してるなんて皇帝にバレたら、公開処刑必至だし。あたしの場合、契約上火球に守られるから殺せないだろうけど。でも、それならそれで超危険人物として永久幽閉されるか、神官に無理矢理火球を引きはがされるかだもんな)
 それに、と彼女は灰色の瞳を暗くした。
(妾にはなれない。あたしは踊り子であって、娼婦じゃない)
 宮廷専属の踊り子になる事は(すなわ)ち、皇帝の妾妃になる事をも意味している。(かつ)て、燕緋がそうであったように。姉を抱き、傷付けた腕で、今度はあたしを抱こうというのか。
 自尊心(プライド)が許さなかった。彼女が売っているのは芸であって、身体ではない。踊り子と娼婦を同一視する客もいるが、そういう外道は(ことごと)く切り捨てて来た。
 しかし、単なる意地だけではないのだ。もし、そんな事があれば――男に抱かれる事があれば、彼女の身に重大な問題が起こる。
 そういった事情を知る(よし)もない彼は、溜め息混じりに言う。「わかってないなぁ。お召しがかかるっていうのは、踊り子の(ほま)れでもあるんだよ?相当美人で歌舞の才がないと、認められないし。花鳥使に見向きもされなかった茉莉の身にもなってごらんよ」
「何よぅ、連れて行かれなくて安心してたくせにぃ〜」
「珠香に入る報酬は二人分。君も行けば三人分だから、いい金になったのに」と再び、残念そうな溜め息一つ。
「私を何だと思ってるのよぅ。それじゃあ、踊り子が一人もいなくなっちゃうでしょお。舞踏楽団なのに、ただの楽団になっちゃうんだよぉ?」と茉莉は細い眉をハの字にして、緩慢な手付きで彼の二の腕をバシッバシッと叩く。
「銀針はほんっとに、金のことしか頭にねぇのな」と蘭は苦笑した。


     
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