第一話 逃亡劇の幕開け (1)


燕緋(エンヒ)姉、足が病むのか?」姉の髪を(くしけず)り、後ろに結い上げながら胡蝶(コチョウ)は言った。
「どうしてそう思うの」
「足、組んでないから」
 燕緋は部屋にぽつんと置かれていた古びた椅子に座り、肘掛けに両腕を預けていた。一瞬の沈黙の後、ふっと息をつき、滑らかな動きで右足を左膝の上に乗せた。
「そういう気分じゃなかっただけよ」
(強がっちゃって)
 胡蝶は無言で(くし)を滑らせる。
 椅子に座ると足を組むのが燕緋の癖だが、怪我の後遺症で時折、足が(しび)れることがある。その状態で足を組むのは辛いらしい。 それでも心配をかけまいと気丈に振る舞っていることを、胡蝶は良くわかっていた。
 妹の心中を読み取ったのか、燕緋は「舞台に影響は無いわ」と付け加えた。
「だけど、あまり長時間立ちっ放しも良くないだろ」そう言って、ちりちり鳴る(かんざし)()してやった。
 燕緋は合わせ鏡で髪型の仕上がりを入念にチェックした。鏡越しに見つめる目が、からかうようにきらりと光った。
「貴方こそ振り付けを間違えて、私の歌を台無しにしないよう気を付けなさい」
「心配するなって。そんなこと、今までにあったか?」
 二人は顔を見合わせ、くすくす笑った。胡蝶は足の悪い姉の手を取って支え、薄布の垂れ幕を(くぐ)り、客席のある部屋へと入って 行った。


 満月が辺りを明るく照らす夜、その草臥(くたび)れた酒場はいつになく(にぎ)わって いた。ほろ酔い加減で(くつろ)いだ様子の客が、あちこちの席で談笑している。店の隅には板を数枚重ね、椅子を四つ並べただけの簡素な舞台があり、そこに楽師が現れると騒々しさが (ささや)きの波へと変わった。隣の客を肘でつつき、目交(めま)ぜを交わし合う。
旅芸人の一団がこの田舎町にやって来て一週間が経と うとしていた。漢帝国中で評判だという彼らの芸を見ようと足を運ぶ客は、日に日に増えるばかりだ。
 楽師は四人いた。二胡を持っているのは団長で、顎鬚(あごひげ)(たくわ)え、穏やかで人の良さそうな表情をしている。笛吹きは、青年と 少年の二人。青年は(するど)い目付きをしていて近寄り難い雰囲気があり、少年は目をきらきらさせて堂々と前を向いている。その隣に座る少女は琵琶を抱え、はにかみがちに (うつむ)いている。
彼らが奏でる音楽も心地よいものだったが、大半の客の目当ては他にある。奥の部屋から衣擦(きぬず)れの音と共に歌い手と舞い手が現 れると、男性客は皆そわそわし始めた。
 歌い手の燕緋は緑の(つや)を帯びた黒髪で、瞳は光の射す角度により赤紫に見えたり桃色 に見えたりした。甘い毒を秘めた妖艶な笑みを浮かべている。そんな彼女に比べると、舞い手の胡蝶は控え目で清らかに見えるのだが、確かな存在感があり、引けを取らない。大人になり かけた少女で、黒に近い藍色の髪に繊細(せんさい)な顔立ち。猫のように丸く切れ長の目。そして体の内から不思議な光を放っているような高潔さがあった。
 客席がしんと静まり返ると、団長は 楽師達に小さく(うなず)いた。(ゆる)やかな楽の音が(こぼ)れ出す。 胡蝶はゆっくりとした動作で舞い出し、燕緋は一つ息を吸い込んだ。高く艶のある歌声が響き渡る。

  長安  一片の月
  万戸(ばんこ)  衣を()つ声
  秋風  吹いて尽きず
  (すべ)()れ玉関の情
  (いず)れの日にか胡虜を平らげて
  良人(りょうにん)  遠征を()めん

 店中の者はたちまち夢見心地になり、恍惚(うっとり)として胡蝶と燕緋を眺めた。温かな毛布に包まれるような、とろけるような感覚。頭の中に(かすみ)が立ち込め、日々の(わずら)わしい出来事は全て忘却の海へと流れていく。
主旋律を奏でる二胡と、燕緋の(かす)かに震える高声が(から)み合う。 胡蝶は広がった袖を(ひるがえ)し、くるりと回った。ふんわり(なび)く、空色の裾。 長い睫毛(まつげ)を伏せて微笑むその表情が、優雅に袖を振る滑らかな仕草が、少々(なまめ)かしすぎる燕緋の歌を柔らかく(ほぐ)していく。
 繰り返し歌い舞い、終わりに差し掛かる手前のことだ。大きな音を立てて、扉が勢いよく開いた。音楽はぴたりと止み、客は夢から覚めたようにはっとした。外に立っていたのは、体格のいい男達だった。(ひげ) や髪が伸び放題で、どこかから()ぎ取ってきたのかちぐはぐな格好をしている。荒々しさから、賊の集団であることは嫌でもわかる。
「おい、金を返してもらおうか」頭目らしき男が、芸人達に向かって言った。脅すように(とどろ)く声に、店内はぴりぴりと緊張した。平和な田舎町に盗賊が姿を見せるなど皆無 (かいむ)に等しく、ほとんどの客がどうしてよいかわからず呆気(あっけ)に取られていた。
 団長が「何の事ですかな」とやんわり尋ねる。
「昨日、お前らに 払った金に決まってるだろう。そこの女の歌を聞いたら頭がぼうっとしちまって、帰って気づいてみりゃ、財布の中身がすっからかんだ」
「お頭、こいつらの目と髪の色、普通じゃありませんぜ」
 男達は胡蝶の藍色の髪、(またた)く間に色を変える燕緋の瞳を注視し、楽師の方へ視線を移す。団長の暗い銀の髪とボルドー の瞳、笛吹きの青年の灰色がかった茶の髪と金の瞳、そして少年のクリーム色の髪と青紫の瞳という風変わりな色合いで確信する。
「やはり妖力持ちか。妖術を使って、お頭をたぶらかしたな」
 彼らの目が少年に止まった時、 (シン)はむっとして下唇を噛み、笛を強く握り締めた。その上に小さな手がそっと置かれる。なだめるように手を重ねる琵琶の少女に、星は力を(ゆる)め、彼女に(ささや)く。 「あんな客、昨日来てたかな。玉兎(ユイト)?」
「ううん。あの人達なら目立つもの。見てたら覚えてる」
 玉兎は真っ直ぐに切り揃えられた前髪を左右に振って答えた。髪も瞳も黒い彼女だけは、漢帝国で一般的な外見をしていた。
 盗賊の言うことは、あながち嘘ではない。燕緋の妖力は歌うことで発揮され、聴く者の心を意のままに操ることができる。しかし舞台上では制御しているため、客が財布の紐を(ゆる )めるのは惑わされているからではなく、心からの称賛からであった。そうでなければ妖術を使った詐欺だと捕吏(ほり)が黙っていないだろう。最も、白黒つけ難い事ではあるが。
 舌舐(したな)めずりしそうな顔で、男達は威圧的に仁王立ちしている。被害者のふりをして、逆に稼ぎを横取りしようというのが彼らのやり口だった。妖力持ちが多く、世間から見下された存在である遊 芸人は、盗賊にとって恰好(かっこう)餌食(えじき)なのだ。
 「客人、申し訳ないが――」団長は事を荒立てないよう、しかしきっぱりと断ろう とした。だが、燕緋が途中で(さえぎ)った。
「そういうことでしたら致しかねますわ。お代の額は、客人にお任せしておりますの。例え、 その場の乗りであったにせよ、一度、私に付けて戴いた価値を下げる訳には参りませんもの」
 眉根を寄せて、黙るよう訴えている団長に対し、この人達に気を遣うだけ無駄よ、と燕緋は薄く笑った。
 彼女の悠々(ゆうゆう)たる態度に苛立った頭目は鼻息も荒く、歩み寄ってくる。一歩一歩近付くのを、全員が目を()らすことなく じっと見つめていた。客ははらはらする思いだったが、胡蝶と燕緋は立ったまま身じろぎもせず、背後の楽師は立ち上がろうとも しない。しかし彼らの指は、ある物を求めて(ひそ)かに動いていた。団長は二胡の棹裏(さおうら)に、星は帯の下に、玉兎は腰の鎖飾りに。 燕緋はまだ口元に笑みを浮かべる程、冷静だ。胡蝶も息を(ひそ)めて待っていた――耳元で別の声が合図してくることを。
「まぁまぁ、お客さん。お止めなさったら」
「うるせぇ!黙ってろ」
 グラスを拭きながらのんびりした口調で言う店主に、男は吼えた。
 一瞬の隙に、胡蝶はひらりと燕緋の前に立ち、(かば)うように手を伸ばした。「客人。このお方は鳥は鳥でも高貴な(あか)き燕にございます。お手を触れずにご鑑賞下さい」
「何だと?」頭目の片眉がぴくりと動いた。胡蝶は射抜くように見上げ、礼儀正しさをかなぐり捨てた。
「汚い手で触んなって言ったんだよ」
 酒場は恐怖に凍り付いた。燕緋は初めて戸惑った顔をし、「胡蝶………」と(かす)れた声を出した。頭目の怒りは見る間に膨れ上がり、目の 前の生意気な少女に(こぶし)を振りかぶった。
 その時、急に男の表情が強張(こわば)り、体が痙攣(けいれん )し出した。帯に隠した飛刀(フェイタオ)を引き抜く所だった胡蝶は、少し目を見開いて動きを止めた。
「失礼。妹が何か粗相(そそう)でも?血の気の多い奴でして」抑揚のない声がした。
 笛吹きの青年、雄黄(ユウオウ)がいつの間にか横に立って いた。そして、男の肩をそっと押す。空いた手で、柳の葉のように薄く尖った短刀を男の脇腹から引き抜いたのを、胡蝶は見逃さなかった。彼がいつ、飛刀を投げたのか。いや、それ以前に彼が少しでも動いたところを誰が見ていただろう。 頭目がどさりと仰向けに倒れた時、すでに雄黄の手に飛刀は無かった。
「お頭!」
「きゃあぁ!」
 客席から悲鳴が上がり、同時に芸人達は舞台を飛び越えた。先端が尖った峨嵋刺(がびし)を両手に持った団長が、器用に回しながら、殴りかかる盗賊の攻撃を封じる。 剣を抜いた者は、玉兎の鎖状の鞭であっという間に剣を絡め取られ、矢継ぎ早に繰り出す星の飛刀に痛みと怒りの声を上げた。雄黄は燕緋を抱え上げ、「胡蝶!」と叫ぶ。
「わかってる!」
 騒音に負けないよう叫び返すと、帯の間から煙幕弾を取り出し、客席に投げた。 灰色の煙がもくもくと流れ出し、視界が塞がれると客は益々(ますます)混乱に(おちい)った。それを合図に、芸人達は窓や扉から散り散りに逃げ出す。
「逃がすな!追え!」手下の数人が慌ただしく外へ飛び出して行った。
 煙が薄くなってきた頃にはもう彼らの姿は無く、床に倒れた頭目の男は手下に助け起こされていた。目を開いたまま、引きつった顔で気絶している。奇妙なことに飛刀が刺さったはずの脇腹は、血が滲む程度の浅い切り傷にしかなっていない。
「だから止めろと言ったんだ」店主は首を横に振り、やれやれと溜め息をついた。
 蝃蝀(テイトウ)芸術団は、異端で有名だった。団員全員が暗器という隠し武器 の使い手で、危害を加えようとする者には果敢に立ち向かうのである。


     
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