第二話 胡蝶と青蛾 (5)


 ドクン。全身の血が激しく脈打つ。青蛾(セイガ)は薄く目を開けた。

 グラスが交わる清々(すがすが)しい音。お酒の匂い。明るさを抑えた照明の下、煙草(たばこ)の煙がベールのように客席に垂れ()める。無数の視線と恍惚(こうこつ)の溜め息。
 脈動を変化させた原因はすぐに見つかった。 (すそ)のコインを(またた)かせながら一回転する(わず)かな間に、青蛾は視界の隅に三つの影を(とら)えた。
(良い所だったのに)
彼女は唇の端を吊り上げた。
 糸路(シルクロード)の異国情緒(あふ)れる音楽に身を任せていた踊り子は、舞台を終わりへと導き出した。楽団も素直に従い、シタールの弦の震えと余韻(よいん)を残して店内を静寂が包む。帽子を取って低くお辞儀する彼女に、観客は割れるような拍手を送った。
 青蛾はテーブルを回り、客と言葉を交わした。どの客も気前よく、差し出した帽子に紙幣を投げ入れてくれる。
 最後のテーブルに、その三人は居た。それぞれ黒いマントを羽織り、フードを引き下ろしているため顔が見えない。一人が(ふところ)をごそごそ探って紙幣を取り出し、にっこりと帽子を差し出す青蛾に放って言った。
「ほらよ。“胡蝶(コチョウ)”」


 (とき)は半日(さかのぼ)る。
 ジャガットの店に通い始めて三日目。もう神力を使わずとも客は集まるのだが、青蛾の踊りを楽しみに来る人も少なく無いし、何よりジャガットとクトが彼女が来るのを心待ちにしていた。混み合う店の中に踊る場所は作れず、仕方なく炎天下の土を軽やかに踏んだ。()だるような暑さに慣れこそしないが、踊り出すと一瞬にして忘れられる。ドゥッタール、シタール、ラバップといった民族楽器を持つ人が毎日集まっては、即興の曲を奏でる。青蛾も負けじと即興舞を披露し、拍手喝采(かっさい)を浴びた。
 流れ落ちる汗を(ぬぐ)い、休憩しようと店に入ろうとした時、誰かに肩を叩かれた。振り返ると、(ふく)よかで派手な服装の女が開けっ広げな笑顔を向けていた。
「あんた、気に入ったよ。うちでも一曲、やってくれない?」
「うち?」
「すぐそこの酒場なんだけど、どうだい?今夜は楽団が来る日だし」と彼女は熱っぽく訊いた。
 青蛾は迷った。一人きりで、しかも知らない町で夜の舞台を踏んだ事は無い。
 けれども熱心に(たた)み掛けて頼む彼女の(つぶ)らな漆黒の瞳と温かな気配に邪心は無く、信用出来る人だということは感じられる。
(どうする?)
「良いんじゃねェか」頭の傍で火球(カキュウ)が返事をした。面白い玩具(おもちゃ)を見つけたような、気味の悪い笑みを含んだ声で。
「わかりました。今夜、(うかが)いましょう」
 ふわり、と微笑みを返して()け合うと、女は喜んで店の場所を詳しく教えてくれた。
「私の名はパルハンだよ。待ってるからね」と香水の(ただよ)う柔らかい手で青蛾の手を握り、彼女は大きな体を揺すって弾むように去って行った。
 夕方、アロドとフィーリアより早く宿に帰り、“(ラン)”に戻ってルミエル達に姿を見せた後、外出すると告げて再び青蛾の衣裳とその上にマントを着込んだ。
 パルハンが切り盛りする酒場は、彼女の人柄が表れていて居心地が良かった。パルハンは青蛾を見るなり力強く抱き締め、「よく来たね」と大喜びで迎えてくれた――のは良かったのだが。


 男の言葉に、青蛾は(ひる)まず、笑顔を崩さなかった。
「“青蛾”です」と正確に発音して訂正する。
 御代(チップ)をくれた小男がふん、と鼻で嘲った。(おもむろ)にフードを上げると、太い眉に(ひげ)だらけの顔が(のぞ)いた。
「上手く誤魔化(ごまか)したつもりか?まぁ、いい」と空いた椅子へ(あご)(しゃく)った。「少し付き合え」
 青蛾の顔付きが挑むような不敵な笑みへと変わった。椅子に腰を下ろし、男達と向き合う。
「久しぶりだね。(ウェイ)捕頭」
 青蛾は“胡蝶”丸出しの話し方で小男に言った。その(いさぎよ)さに、小男は豆粒みたいな目を皿のようにし、グラスに唇を付けた状態で動きを止めた。
随分(ずいぶん)、遅かったようだけど。ねぇ?候侗(コウトン)殿に剡僇(エンリョウ)殿」
 ちら、と上目遣いに痩せた男と体格の良い男へ順に目を流すと、候侗は異様にぎょろついた目を一層ぎらぎらさせ、剡僇は太い指でグラスを(つか)み、黙って口へ運んだ。
 威捕頭は苦々しく舌打ちした。「鬼ごっこじゃないんだ。遅いとか言うんなら逃げるんじゃねぇ」
 青蛾はころころと笑った。まともに取り合わない彼女に、威捕頭は苛々(いらいら)した。
「いい加減、諦めろ。あの方のお召しを断ることなぞ出来ん」
「嫌」
 青蛾は片(ひじ)をテーブルに立て、手の甲に顎を預けた優雅な姿勢のまま、きっぱり言った。
 左横の候侗がおどおどと声を落として言う。「皇帝はだいぶお怒りだ。このままではお前の仲間もただでは済まなくなるぞ」
「そんな気なんかないくせに」
 青蛾は捕吏達と目線を合わせた。猫のように丸く、切れ長の目。心の中を全て見透かされそうな目。しかもそこには恐怖も、怒りも、軽蔑も、何の感情も読み取ることが出来ない。三人はぎくりとした。
「あんたらはあたし達を恐れてる――蝃蝀(テイトウ)は暗器の使い手(ぞろ)いだから」
 暗器は身を守るためだけの武器では無い。古来より暗殺の道具として使われた経緯(けいい)がある。隠し武器と言うだけあってその種類、形状、使い方等の情報は門外不出。その道に通じる者以外にとっては妖力並みに謎の代物(しろもの)である。
「暗器の技術に長けていれば、暗殺を企てていると疑われても無理はない。だからあたし達は都や都の周りの町を避け、たくさん人目に付く場所を選んで興行して回っている。万が一、皇帝に何かあった時に()れ衣を着せられないようにね。あんたらも側近も、誰より皇帝自身が暗殺されるのを恐れてる。こうやってあたしだけ呼び出そうとするのも小娘一人なら何も出来ないと高を(くく)ってるからでしょ? いくら蝃蝀の評判が良くても全員を宮廷に招こうとしない。ましてや、わざわざ恨みを買って殺される動機を作るなんて事もしない。皇帝は蝃蝀(あたしたち)を恐れてるから」
 威捕頭はぐうの音も出なかった。この娘に脅しは効かない。かぁっと頭に血が上り、気を落ち着かせようとグラスの中身を一気に飲み干した。
 青蛾はすかさずテーブルにあった白酒(パイチュウ)(びん)を持ち、空になったグラスになみなみと注いだ。
「こんなに飲ませてどうする気だ?」と剡僇が線のように細い目で油断無く彼女の手付きを見()え、(うな)るように言った。
「決まってんじゃん。べろんべろんになるまで酔わせて、その隙にさっさと逃げるのさ」青蛾は愉快そうにクックックッ、と肩を震わせた。
 恐らく本気なのだろうが冗談めいた言い方のせいで本心では無いようにも聞こえる。捕吏達は無言のまま、顔を見合わせた。
 不意に威捕頭が両手で顔を覆い、首を絞め付けられたような声を()らした。「何だって皇帝はこんな女を欲しがるんだ………?」
「こんな女だから止めた方が良いですよ、って言って差し上げたら?」
 部下二人のグラスにも白酒を注ぎながら、青蛾は他人事のように言う。
「俺の立場でそんな事言えるか」指と指の間からきっ、と(にら)み、彼はテーブルにがばっと突っ伏した。「昇進して初の仕事が、皇帝の(めかけ)探しとは………」
「捕頭………」
威鋒(ウェイフェン)殿………」
 候侗と剡僇はおろおろして、泣き言を並べる上司を(なぐさ)めに掛かった。
不憫(ふびん)な奴らだな)
 これには青蛾も同情しそうになる。捕吏は本来ならば治安を維持するために働く、言わば警察官。こうして皇帝の気まぐれに振り回されていては、国の乱れに拍車を掛けるばかりなのだ。
「捕吏なんて辞めちゃえば?」
 そう言った途端、威捕頭は勢いよく体を起こした。「そんな訳に行くかっ!俺だって養わなきゃなんねぇ家族がいるんだ」
「じゃあ、もし自分の娘を寄越(よこ)せって皇帝に言われたら、はいどうぞって差し出すの?」と青蛾は淡々と言ってやった。
 深い沈黙が捕頭を包み込んだ。
 が、(しばら)くして彼は重い口を開いた。「お前の気持ちもわからんでもない。だが、こっちも仕事だ」
 彼は立ち上がり、剣を抜いた。両横の二人もそれに(なら)う。
「大人しくついて来い」
 他のテーブルから、ちらちらと不安そうな目線が集まり始めた。青蛾はふっ、と口元を(ゆる)めた。ゆっくりと、ベストの裏側に手を伸ばす。
幼気(いたいけ)な乙女にそんな物、向けないでくれる?」
 瞳だけ上げて捕吏達を見た。その目に(たわむ)れの色は無い。
 威捕頭が何か言おうとした時、隣で小さな(うめ)き声がした。剡僇が額を押さえ、がくりと(ひざ)を付いた。手から剣が滑り落ちる。どさっ、と倒れ、高(いびき)を掻き出した彼を、捕頭と候侗は唖然として見ているしかなかった。
「あ〜ら、大変。一番強そうなのが酔い潰れたみたい」
 青蛾は素早く剡僇の椅子の脚から飛刀(フェイタオ)を引き抜くと、飛び退()いて捕吏達と間合いを取った。
「貴様!一体、何をした?!」威捕頭が吼えた。
「今にわかるよ」
 青蛾はベストの裏から飛刀を二本、引き抜いた。捕吏達は黒のマントを(ひるがえ)し、剣を振るった。青蛾は()けながらテーブルからテーブルへ飛び移る。椅子が倒れ、グラスや酒瓶が割れる甲高い音があちこちでした。客席から悲鳴と怒号が上がる。
「何だ、喧嘩か?!」
「止めろ!」
 青蛾の投げる飛刀がシュッという風切り音と共に候侗の耳を(かす)める。つ、と血が(にじ)んだ事に本人は気付かず、馬鹿にしたようなけたたましい笑い声を上げた。
「どこを狙っている?!距離が近すぎて当てられないか?」
「当てる気なんかないねっ」
(掠るだけで十分!)
 青蛾はもう一本を投げた。威捕頭は()()って身をかわし、飛刀は窓枠に突き刺さった。
 青蛾――蛾の触角のような眉の美人を意味する言葉。しかし彼女にこの名を与えた人物は別の意味も込めていた。“胡蝶”は蝶のように美しく可憐であるが、その身に触れようとする者が現れるとたちまち毒牙を()き出し、蝶から蛾に転ずる。これが“青蛾”と名付けられた所以(ゆえん)である。
 彼女の毒牙、飛刀には雄黄(ユウオウ)が妖力で作った睡眠薬が仕込んである。血がほんの少し滲むだけの傷を付けるだけで全身に回る劇薬。会話から三十秒と持たずに候侗の視点が定まらなくなり、その場にくずおれて眠りこけてしまった。
「なっ………お前達、情けないぞ!!」
 威捕頭は(わめ)き散らしたが、部下達に起きる気配は無い。彼は奥歯をぎりぎり鳴らして剣を握り直し、青蛾を冷たく見下ろした。
 青蛾はそっと、出入り口のドアと窓の位置を確かめる。
(そろそろ逃げれそうかな)
 そう思った矢先、ドクン、と火球が脈拍を変えて警告する。威捕頭が大きく踏み込み、ぎらつく刃を振り(かざ)す。青蛾は避けると同時に毒の刃先で軽く斬り付けてやろうと、身構えた。
 その刹那(せつな)、黒い影が両者の間に飛び込んで来た。

 キィン。

 金属が激しくぶつかり合う音が響き渡る。
「あ」と青蛾は小さく息を呑み、身を硬くした。喉元に棒状の物が突き付けられていた。その持ち主は捕頭の剣の動きをも封じていた。
「双方、そこまでだ」低い声が言った。


     
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