第二話 胡蝶と青蛾 (6)


 青蛾(セイガ)は目を見張り、驚きの声を何とか呑み込んだ。
 柔らかな照明を受けて鈍い光沢を放つ黒い背中。乱れ刃の倭刀(わとう)(ウェイ)捕頭の剣をがっちり受け止め、梃子(てこ)でも動かないように見えるその男は――斎部柾(いんべまさき)であった。
 青蛾から戦意が消えたのを背後に感じ、柾は突き付けていた(さや)を彼女の喉から離して腰に収めた。彼の集中は未だ戦意()き出しの威捕頭に向けられたままだ。
「店ん中で暴れるのは()してもらえます?他のお客さんに迷惑ですから」
 (もっと)もな発言である。客全員が乱闘に巻き込まれまいと壁際に張り付いて途方に暮れているのだから。それでも任務遂行(すいこう)の為引き下がる訳にはいかない威捕頭。
退()け、若造。俺を誰だと思っている?漢の警察だぞ」
 剣を交えた柾を鋭く見()えたまま空いた手でマントを(めく)り、胸の捕吏の紋章を見せつける。
 柾は見向きもせず、「漢帝国の腐った法律なんざ、ここでは通用しねえよ」と静かに言った。
「言葉を(つつし)め!」
 威捕頭は凄み、剣を握る手に力を込めて押し出す。柾も(たくま)しい腕で押し返す。刃と刃が(こす)れ合い、両者無言の争いが続いた。
「退かないと公務執行妨害だぞ」
「そっちこそ営業妨害だろ。それとも警察なら何やってもいいと思ってんのか?」
 ついに堪忍袋(かんにんぶくろ)()が切れた。威捕頭は一声()えると立て続けに斬り込んで来た。容赦無い連続攻撃を柾はさらりと受け流し、ついでのように斬り付けたが相手は飛び退(すさ)って(かわ)した。短い金属音が次々に鳴り響く。
(馬鹿なっ、読まれている………?)
 威捕頭の額に汗が(にじ)んだ。機敏な剣使いが彼の得意とする所だったが、一撃一撃が全て打ち返される。突如、間合いを詰めて振り払われ、剣圧で吹き飛ばされた。空中で一回転、テーブルの上に着地して体勢を立て直す。だが、柾の一振りの方が早かった。威捕頭の足が着くか着かないかの内に、足場はぐらりと崩れた。
「うわっ?!」
 体がふらついた一瞬の(すき)に、柾は手首を返して相手の剣を打ち飛ばした。カラン、と乾いた音を立て、剣は壁の方へ転がった。床に尻餅を着いた威捕頭が何が起こったのかと頭を起こすと、最初はぽかんと口を開け、見る見る青ざめていった。

 …………。

(………はぁあああ?!)
 青蛾も呆気(あっけ)に取られた。
 信じ難い光景だった。柾は刀を何気無く振り下ろしただけのように見えた。それなのに――ずっしりと厚みのあるテーブルが真ん中からぱっくり二つに割れ、滑々(すべすべ)した木目の断面を(さら)け出していた。
 柾はさっさと刀を鞘に収め、「まだやるってんなら………」と威捕頭をギンッ、と(にら)み付ける。その凄まじい形相ときたら、縄張りに踏み込んだ余所者(よそもの)咆哮(ほうこう)を上げる猛々(たけだけ)しい虎の様だった。
「上等だ。表へ出ろ………っ」
「ひっ、ひぃぃ!!」
 火事場の馬鹿力とはこの事か。小さな体のどこにそんな力があるのか威捕頭は部下二人を両手に引っ(つか)み、血相を変えて店を飛び出して行った。
 青蛾は震える指でテーブルを差しながら、「今っ、何したんだ?!」と口をぱくぱくさせた。
「斬った」柾は涼しい顔で何でも無い事のように答える。
 そこで初めて、彼は青蛾を見た。徐々(じょじょ)に驚きの色が浮かび上がる。
「あ?お前は――」
(やべぇ!ここで“(ラン)”って呼ぶな!)
 がばっと右手で彼の口を(ふさ)ぎ、左手を首の後ろに回して思い切り抱き付いて、周りに聞こえるよう(わざ)と大声で言った。「ありがとう助かりましたこのご恩は一生忘れません!」
「?!」
 いきなり抱き付かれるわ、鼻まで塞がれて息が出来ないわで、柾は青蛾を突き放そうともがいた。彼がはっとして動きを止めたのは、耳元で(ささや)かれた一言だった。
「初対面のふりしろ」
 言い終えるや否や、青蛾はさっと身を引いた。やっと呼吸が楽になった柾はゼエゼエと荒い息を()いた。
 その時、奥から()いた足音がして、女店主パルハンが大慌てで駆け寄って来た。
「青蛾!何ともないかい?」
 パルハンは青蛾を抱き締め、よしよしと優しく頭を撫でる。
「ママさぁん!怖かったぁ」
 柾を含め、経緯(いきさつ)を見ていた客は心の中で「嘘付け」と思った。彼女は怖がるどころか大の男二人を打ち負かしていたのだから。それを知らぬは、今の今まで酒蔵に居たパルハンただ一人である。
「私がちょっと目を離した間に………って、これはどうしたの?!」彼女は(こぼ)れた酒に(まみ)れたグラスの破片で散らかった床と、見事なまでに真っ二つのテーブルを見るなり叫んだ。
「邪魔だから斬っちまった」
「店の物を邪魔扱いするんじゃないの!」パルハンは(くせ)のある黒髪を逆立てた。
「あの………すぐ片付けますから」
 そろそろ終わりにしろよ、という客の視線が突き刺さるのを感じ、青蛾は彼女を(なだ)めた。


 床を()く間中も、パルハンはぶつぶつ言っていた。すでに客は帰った後で、三人で店内の片付けをしている所だ。
「まったく。あんたには警備を頼んだだけで、テーブルを壊せと言った覚えはないよ」
「………スミマセン」柾は表情を変えず、(ほうき)を手に取って言った。まるで箒の()に書いてある字を棒読みしたような言い方だった。
「謝るんなら誠意込めて!頭下げる!腰は低く!」
 ビシビシ説教が入るものの、彼は眉間(みけん)にちょっと(しわ)を寄せただけで平然としている。
(“警備”?そう言えばリアもこいつを用心棒って言ってたな)
 酔っ払い同士の喧嘩やいざこざを止めさせ、客の安全を守る酒場の警備員。確かに彼らしい仕事かもしれない。
(でも雇い主と()めるのはいかがなものかと)
 雑巾(ぞうきん)を絞りながらそっと溜め息を吐く。
 パルハンの説教はまだ続いており、柾の無愛想っぷりも相変わらずでそれが彼女の怒りを増長させているようだった。
「ママさん。あたしのせいでもありますから、その位で………」
 するとパルハンはころりと態度を変え、「あら、あんたはいいんだよ。悪くないんだから」などと言う。青蛾は困り笑いを浮かべた。テーブルはともかく、逃げ回った時にグラスや酒瓶(さかびん)を割ったのは青蛾なのだ。
「それよりも、あんたはもう帰っていいよ。今日は大変だったろう?可哀想に。また明日も来ておくれ、と言いたい所だけど………」パルハンは眉をひそめ、哀れみを込めて言った。
 青蛾は少し目を()せた。捕吏に見つかった以上、一刻も早く高昌(ここ)を出なければならない。もうパルハンやジャガットの店で働くことも無いだろう。
 事情を知る(はず)も無いパルハンは、青蛾が先程の事件でこの店に来るのが怖くなっているのだと思っているらしい。
「怖い思いをさせてしまって悪かったね。それでもまた来てくれる気になったらいつでも来ておくれ。無理にとは言わないからさ」青蛾の肩にぽん、と手を乗せ、明るい笑顔を見せた。青蛾が(うなず)いたのを確認すると、パルハンは柾の方を振り返った。「ちょいとあんた。この子を家まで送って行っとくれ」
「え?」青蛾はぎくりとした。
「何で俺が?」と柾は面倒臭そうに箒を(かつ)ぎ、眉間の皺を益々深くして言った。
「従業員の安全を守ることも仕事のうちだよ。この子はよく働いてくれたし。それにね、テーブルの弁償代分働くのと、この子を送るのとどっちがいいんだい?」
「…………」それでチャラにしてくれるなら、と柾は渋々頷いた。
 (あせ)ったのは青蛾だ。「いいです!一人で帰れますから」
「何言ってるんだい。若い女の子がこんな時間に独り歩きなんてするもんじゃないよ。柾、ちゃんと送り届けるんだよ」
 パルハンは奥に引っ込み、青蛾のマントを持って出て来た。柾は返事の代わりにそのマントを青蛾に投げて寄越(よこ)した。


 宿まではそう遠くない。人気の無い夜道を、青蛾と柾は連れ立って歩いた。
 柾がぶっきらぼうに言った。「お前の稼ぎ方ってのは危なっかしくてしょうがねえな。俺等の事は俺等で解決するから、お前まで夜中に働く必要ねえんだぞ?」
「や、やだなぁ。どなたかと勘違いされてません?あたしは青蛾で〜す」と片目を(つぶ)るオマケ付きで別人を装ってみた。
 柾はぴたりと足を止め、(うわ………こいつ、どっかおかしいんじゃねえの)と呆れ返った様に表情を引き()らせた。
(まさかのドン引き?!頼む、止めてそういうの。どう反応していいかわかんないからっ!)
 もはや正体を隠しきれないと観念し、(ラン)は自分が踊り子である事と捕吏に追われている訳を()(つま)んで説明した。
「漢の皇帝は好色家で有名らしいが、お前みたいな変な女も許容範囲か」
「お前まで変な女扱いすんのかよ」
 さらりと失礼な事を言われ、蘭はぷいっと横を向く。「そういうお前だって、変わってんじゃん」
「どこがだ?」
 蘭はすぐには答えない。さっきの戦いを見ていて覚えた違和感。戦闘に(のぞ)む者、特に剣持つ者には必ずある筈のものが、彼には欠けていた。
「殺気がなかった」ゆっくり彼の方を向き、感じた疑問をそのまま口にした。「本気じゃなかったからか?」
 すると柾は鼻を鳴らし、吐き捨てるように言った。「あの程度の(やから)に本気で行くかよ。あれでも警察だって言うから笑っちまうぜ」そもそも、と彼は続ける。「(やまと)の剣士に殺気出す奴なんていないぜ」
「いない?」
「ああ」柾は前を見据(みす)えたまま答えた。目を合わせこそしないが、歩幅の狭い蘭に合わせてくれているらしく歩みは幾分(いくぶん)(ゆる)やかである。
「平気で人を斬れるようじゃ、強いとは言えねえだろ。どっちかの死をもって決着(ケリ)付けるような考え方は、倭では最も軽蔑される。傷付くことへの恐怖、死への恐怖に負け、相手の命より自分の命を優先する。憎しみに感情を支配されて相手の命を軽んじる。そんな弱い心で剣を振るような奴は、強い人間なんかじゃねえ。 血気に(はや)る、ただの馬鹿だ」
 蘭は黙って、柾を穴の開く程見つめた。こんな考え方をする人間が存在()るなんて信じられなかった。
 蝃蝀(テイトウ)芸術団の者も滅多に殺気を出さないが、それは皇帝や捕吏に危険因子と見做(みな)されないようにする為である。相手をなるべく傷付けず、ましてや殺してしまわないように。勝敗など関係無く、ただ逃げる為の(すき)を作る最小限の戦い方しかしない。 それに比べ、向かって来る人間は皆、敵意を(あらわ)にする。殺しても構わないとばかりに剣を振り回す盗賊等は殺気がビリビリと肌に伝わってくるようだったし、威捕頭だって連れ帰る為なら多少の傷を負わせるのも止むを得ないと思っているだろう。
「道徳的だとは思うけど………相手もそんな風に考えてるとは限らないだろ。そういう奴に本当に勝てると思う?」
「相手がどうだろうが(かま)やしねえよ。俺は俺の信念を貫く。人として恥ずべき行為はしねえ。それだけだ」
 じぃ、と見つめられる気配に、柾も目を向けた。
 途端、自分を見つめる瞳があまりにも清浄(きれい)過ぎて、気後れした。(よこしま)な考えを持たぬ彼でさえ、その瞳の前では後ろめたい気持ちにさせられるような、自分が酷くちっぽけに思えて来るような不思議な感覚がした。何よりも驚いたのは、彼が一番良く知っている目に何処(どこ)か似ているという事だった。
「な、何だよ?」柾はどきっというよりはぎくっとして、それを隠そうと不貞腐(ふてくさ)れた声を出した。
 目を細めてにぱっ、と笑い掛け、蘭は言う。「お前って、見かけより良い奴だな〜と思って」
 柾は(いぶか)し気な顔付きになり、ふいっと目を()らした。
「………変な女」と(つぶや)くのが聞こえた。


     
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