第二話 胡蝶と青蛾 (7)
「また変って言ったな――」と言い掛け、蘭は立ち止まった。じりじりと二、三歩後退する。
「どうした?」柾が足を止めて振り返った。彼女はある場所から目を離さない。
宿の入り口に誰かいる。低い声で言葉を交わし合いながらのろのろと積み荷を降ろし、駱駝を裏庭へ引いて行く所だ。ゆっくりした動作から疲れが見て取れ、どうやら今し方、着いたばかりの隊商らしい。捕吏では無い事にほっとしたものの、この宿に出入りしているのを見られれば聞き込みに来た彼らにばれるのは時間の問題だ。
蘭はくるりと向きを変え、建物の反対側へ回った。
(入らねえのか?)
その行動の意味を掴めぬまま、柾も後から付いて行く。
上を見上げると、窓がずらりと並んでいる。部屋の真下に立った蘭は、(よしっ)と唇を噛み、スカートの裾をたくし上げた。慌てて顔を背けた柾だったが、彼女は中に穿いていたショートパンツに裾を入れ込んだだけだった。そして煉瓦の継ぎ目に細い指を掛け、壁を攀じ登り始める。
「お、おい?!」突然の行動に、柾は驚いた。
蘭はしっ、と人差し指を口元に当てて言う。「正面は人がいるから、窓から入る。人に見られるとまずいから」
「何言ってやがんだ。落ちても知らねえぞ?!」
彼の心配を余所に、蘭はするする登っていく。小猿顔負けである。柾は舌を巻いた。
(手慣れてやがる)
益々、変わった女だ。飛刀の使い方といい、身のこなしの軽さといい、相当な訓練を積んでいるに違いない。これも追っ手から逃げ切る為に身に付けた術なのだろうか。
そんな事を考えている内に、彼女は窓枠に手を掛けた。安堵し、もう放って置いても平気だろうと判断した柾はこう告げた。
「俺は店に戻る。あのくそババアが五月蝿えからな」
蘭は頷き、小さく手を振った。彼は背を向けて歩き出していたが、片手の甲を少しだけ挙げて見せた。
この時を待っていたようにどす黒い煙が大量に噴き出し、蘭を包んだ。竜の首を伸ばして柾が角を曲がっていくのを眺める火球は、二人の会話に口を挟みたくてうずうずしていたのだった。
「あの男………果たしてお前に吉と出るか、凶と出るか。見物だぜェ」
「何の話?」
「嫌でもわかるさ。その内な」火球はニタニタァ、と不吉な笑いを広げる。
蘭は特に気に留める様子も無く、肩を窄めた。
「なかなか面白ェ奴だ。『井の中の蛙、大海を知らず』ってな。甘ったりィ考え方しやがるって、お前もそう思ってンだろうが?」
「考え方自体は甘くなんかない。あたしも同感だ」
ただ、と蘭は一呼吸置いて続ける。「色んな考えを持つ人がうじゃうじゃいるこの世界の中で、それを貫き通すのは簡単じゃない。いくら決意が固くてもね」
「そうだなァ。ああいう奴は、道を踏み外したら下まで一気に転がり落ちるタイプだな。人を斬る感触、血の味を覚えた人間は良質な邪気を放出する」いいねェ、と彼は恍惚した。「一人でいい。たった一人殺しただけで、あの男は邪気の塊と化す。こりゃア楽しみだぜ」
これには流石に、蘭も表情を険しくした。ちろちろと舌舐めずりする火球をきっ、と睨み付け、「お前の餌じゃないぞ。手出しするなよ」と低い声で念を押す。
「そン時の状況にもよるなァ」
ケタケタ笑いながら、彼は蘭の中に消えた。
暫くの間、蘭は微かに瞳を震わせながら火球が居た辺りの宙を見つめていた。悪魔は契約を破れない。蘭を主とした以上、火球は命令に逆らう事が出来ない。
しかし契約を超えないぎりぎりの線で好き勝手に動くのが悪魔だ。彼の思考の先を読み、抜け道を封じることが出来なければ、他人をも火球の陰謀に巻き込んでしまう。それだけは絶対にあってはならない。
(早くあいつらと別れよう。あたしは一人でいなきゃいけない)
窓枠に爪を立てた。ぐっと顎を上げ、ガラスに顔を近付ける。カーテンは閉まっているが、隙間から明かりが洩れている。コツコツ、と軽く叩いた。
フィーリアは枕を背にしてベッドの上に座り、分厚い本を広げていた。青いフレームの眼鏡越しに一行一行をしっかり読み進めながら、時々、手元のノートにペンを走らせる。
一息吐いて時計を見遣る。もう夜中だというのに蘭は帰って来ない。ルミエルが言うには、夕方に戻って来た後、行き先を告げずにまた出掛けたらしい。
(何かあったんじゃないといいけど………)
眼鏡を外し、こめかみを揉んでそう思った矢先、小さな物音がした。風の音かなぁ、とぼんやり考えながら窓の方へ顔を向けた。
コツコツ。
今度ははっきり聞こえた。彼女の頬がひくひくし出す。
(か、風が強いだけよね?)
コンコン。
明らかに人の手で叩く音だった。フィーリアは飛び上がってベッドから降り、恐怖で見開いた目をカーテンの掛かった窓に吸い付けたまま、後退りした。
「だっ、誰かいるの?」
頭の中でホラー映画の音楽が流れ出す。何せ、此処は二階。しかも人が立てるような足場は無い筈だ。後ろ手でドアノブを弄り、するりと廊下へ出た。
「アル〜?ルッちゃ〜ん?」
フィーリアは隣の部屋をノックしながら、か細い声で呼び掛けた。二人共、もう眠っているのだろう。反応は無かった。諦めて自室へ戻りかけた彼女は、またしてもあの音に迎えられた。
コンコンコン!
(ひゃあぁぁっ!!)
真っ青で隣の部屋の前へ駆け戻り、手当たり次第にドアを叩きまくった。
「アロド・スタインカーン!起きろぉ!!」
ドンドンドンドン………!
喧しいノックに紛れて、ドシン、と誰かがベッドから落ちたような音がした後、勢いよくドアが開いた。アロドが不機嫌そうに怒鳴る。
「うっせーな!何時だと思って――」
「窓の外に誰かいるの窓の外に誰かいるの!」
すっかり取り乱したフィーリアに詰め寄られ、アロドはきょとんとした。「ここ、二階だぜ?」
「そうなんだけどっ」
フィーリアは彼の腕を引っ張り、部屋へ連れて行った。
コンコンコン!
「ほらぁ!」と彼女はアロドの背中にしがみ付いて言った。「ねぇ、見てきてよ」
アロドは欠伸をし、眠たそうに目を擦った。「そんなびくびくしなくても、オマエみてーな寸胴女、襲いに来るヤツなんかいねーよ」
「余計なお世話よ。いいから早く見てきて!」
「あいあい」
怠そうに窓へ近付き、シャッ、と一気にカーテンを開けた。すると、両手をガラスにべったり張り付けて中を覗き込む、黒い人影が現れた。
「ぎゃあ!!」二人同時に叫ぶ。
が、顔を上げたその人物を見たアロドが素頓狂な声を出した。「………って、青蛾か?」
彼女はガラスの向こうで、ほっとした表情を浮かべた。「悪い、開けて」と言うように、片手を鼻の前で立てる仕草をする。鍵を外してやると、青蛾はふわりとマントを靡かせ、部屋の中へ入った。
「気付いてくれてよかった。寒くて凍えそうだったぜ」
“青蛾”の恰好のまま、“蘭”の笑い方でにっ、と笑う。
アロドとフィーリアは無言で顔を見合わせた。彼女は、明らかに“蘭”だ――服装が“青蛾”である事を除けば。別々の人格であった筈が、今は両方ごちゃ混ぜになっている。
頭に色々な疑問が犇き合ったが、フィーリアは取り敢えず当たり障りの無さそうな事を口にした。「どうしたの、窓から………?」
「ん。正面から入りづらかったもんだからさ」と蘭は申し訳無さそうに眉をハの字にした。「追っ手に見つかっちまって。悪いけど、もうここにいられないんだ。明日の朝、発つよ」
マントを脱いで手早く畳み、帽子を取った。
その間にアロドとフィーリアは部屋の隅っこに移動し、こそこそ話し始めた。
「どういうことよ?」
「“青蛾”の人格が、途中で“蘭”に入れかわっちまったんじゃねーかな?」
アロドは朱い
瞳を細めて考える。二重人格疑惑は、未だに晴れていないのだ。
「だとすると、今は“蘭”として接するべきか?“青蛾”だったらオレ達がここにいるって知らないはずだし」
「うん………でも、人格が入れ替わった時点で自分の服装が変わってる事にうろたえるわよね、普通。何か、平然としてるし………ひょっとして二重人格って自覚してるんじゃないかしら?」
二人がいつまでもそうやっているので、蘭は首を傾げた。「さっきから、なぁに?」
「ううん!別に。えっと………」“蘭”と言うべきか“青蛾”と言うべきか、フィーリアは迷った。
しかし、答えに辿り着く前にドアノブがガチャリ、と鳴り、ルミエルが目を擦りながら入って来た。「なにごと………?」
「あ、起こしちまったか?」
見知らぬ少女に話し掛けられ、ルミエルの眠気は吹っ飛んだ。「誰?」と呟き、ぽかんとする。
「えっと、この人は“青蛾”っていって。その、バイト先の………」まだ混乱しながらも、アロドは説明しようと必死だ。
あたふたする彼に、蘭は首を捻った。二人の前で別人を演じていた事を、彼女はすっかり忘れていた。柾に事情を説明したせいで、アロド達にももう話した気になってしまっていたのだった。
「ルー。あたしだよ、あたし」
「蘭なの?」ルミエルは何度も瞬きし、“青蛾”の衣裳を上から下まで眺めた。
「そう。着替える時間なくて、こんな恰好だけどな」そして、不意に真剣な顔付きになり、アロドに釘を刺した。「あたしが“青蛾”だって、誰にも言うなよ。捕吏の奴らに、あたしが“青蛾”だとはばれてないけど、“青蛾”が“胡蝶”だってのはばれてるからな」
(他にも人格があるなんて!)
二人はパニックを起こしかけた。二重どころでは無い、多重人格なのか。何がなんだかさっぱりわからず、視界が渦を巻き出した。
ルミエルが「こちょう?」と蘭に訊く。
「あぁ。芸名だよ。“胡蝶”も“青蛾”も、踊り子としての芸名だ」
(……………えっ?)
ふーん、とすんなり納得するルミエルの横で、アロドとフィーリアはぴたりと固まった。
「つまり、捕吏とやらから身を隠すために名前を変え、別人を装っていた、という訳ね」フィーリアは腕を組み、やっと落ち着いた様子で言った。「だから、お店で会った時も面識ないふりしたのね。わたし達を信用してないのね。アンタの正体をべらべら喋って回るとでも思ったの?それとも懸賞金目当てに、皇帝に突き出すとでも?」
「ごめん、ごめん」
あまりにもフィーリアが怒るので、思わず笑ってしまいそうになる。
アロドも憤慨した様な、呆れた様な苦笑いで言う。「オレ達はトレジャーハンターだぜ?お宝は好きだけど、おたずね者の賞金には興味ねーよ」
(だと思った)
蘭はにっこりした。本当はわかっていた。彼らには話しても大丈夫だと。でも、そう言うとフィーリアがもっと怒りそうなので、黙って置く事にした。
「それで、明日の朝、行っちゃうの?」とルミエル。
「いっそのことさ」アロドが身を乗り出して言う。「一緒にくりゃいいじゃん」
「え゛ぇ?何でそうなるんだよ」
「う〜ん。実はね」フィーリアが俯きがちに話し出す。「楼蘭までの案内人が見つからないのよ。その………案内料払えないって言うと、断られちゃって」
「………まぁ、当然だろうな」
対価も無しに、危険な砂漠の案内など誰がやりたがるだろう。旅の費用を貯めるのもやっとで、誰かを雇う余裕が無いのも事実ではあるのだろうが。
「だから、案内できるなら蘭にお願いしたいの」と彼女は両手を合わせた。「それに捕吏だって、まさか楼蘭みたいなへんぴな所まで追って来ないでしょ?」
(う…………)
フィーリアの言う通りだ。砂漠のど真ん中なんて踊り子が一人で行く所では無いから、捕吏も想定外だろう。次の町へ行くよりも安全かもしれない。
あまり長く関わり続ければ火球が何をし出かすかわからない、と痛感したばかりではある。だが、もし断れば、例え案内人がいなくてもいずれは楼蘭へ向かう気なのだろう。自分が見捨てたせいで、行き倒れになった四つの死体が砂に埋もれるなどというのは、どうにも後味が悪い。
とうとう、条件付きで返事をした。「わかった。調査が終わるまでは付いて行く。その後は一人で行くからな」
やったぁ、とアロドとフィーリアは手を打ち合わせた。ルミエルは対照的に、「やっぱり行くんだ、楼蘭………」と可哀想な位、沈み込んでいる。
いきなり、アロドが「あっ!」と額を叩いた。「まだ資金が足りねーんだった!」
「これでも足りない?」
蘭は小袋を取り出し、中身を自分のベッドにぶちまけた。彼女がたった三日で稼いだ金額に、一同は目を丸くするばかりだった。