第三話 砂漠へ (3)
次の晩も、またその次の日の晩も、フィーリアは同じ調子で出て来なかった。星がぽつり、ぽつりと光り出す時間になると決まって、疲れたからとか明日の朝は早いからという理由で先にテントに引っ込んでしまう。とは言っても、寝ているのかと思えば寝袋の中で懐中電灯の明かりで本を読んでいる事あるので、適当な理由を付けて避けられているようにも思えてしまうのだった。
「気にすんな。リアって、夜はあんまり外に出たがらねーんだ」心配顔の蘭を元気付けるように、アロドが近付いて来て明るく言った。
星空の下、蘭はルミエルと並んで大きい方のテントの前に座っていた。アロドと柾は立ったまま、満天の星を仰いでいる。
「そうなのか?」
きょとんとする蘭の横で、ルミエルがうーん、と唸る。「宿に泊まるときはおそくまで話したりもするけど、野宿だと早くねちゃうんだ。なんでかわからないけど………外が暗いとこわいのかな?」
「あいつに怖いもんがあるのか?」柾が疑わし気に眉根を寄せ、独り言の様に言った。
「よせって。聞こえたら銃弾飛んでくるぞ」アロドが可笑しそうに吹き出し、ちらっとテントの方を見た。「それ、どういう意味よ?」という尖った声が返って来るのを期待した様だが、フィーリアは聞こえているのかいないのか何の反応も示さなかった。
仕方無く、話題を変えようとした時だった。遠くから不気味な音が流れて来た。人の呼び声のような嘆く声のような音が夜の静けさを破って長々と聞こえ、気味の悪い余韻を残して消えた。
ルミエルは身震いした。背中に冷水を浴びせられたように震えが駆け抜ける。「今の、なに?」
「鳴き砂ってやつじゃねーの?」と大して気にしていない様子で耳を掻き、アロドは言う。
砂丘を風が吹き抜けると砂が擦れ合い、鳴き声に似た悲しい音を出す事があるという。それが鳴き砂だ。
柾がすっ、と焦げ茶の鋭い目を細める。「鳴き砂は砂丘の近くで聞こえるもんなんだろ?妙だな。この辺りに砂丘はなかったぜ」
ルミエルは小刻みに震えながら、寒気を堪えるように腕を擦った。夜の砂漠は昼間とは比べ物にならない位冷え込むが、外気の冷たさだけのせいでは無い。言いようのない不安が彼を襲っていた。トレジャーハンターに加わって諸国を旅してきたが、これ程までに異様な空気を感じたのは初めてだ。
何十、何百もの目に睨まれている気分だ。
物心付いた頃から、ルミエルは人の目には見えにくいものを見る事が頻繁にあった。つまり、生きている筈の無い人間の姿だったり、悪魔だったりと大半は見るに堪えないおぞましいものの事だ。
最初の内は、そういった類を自分と同じように感じる事の出来ない人にも理解してもらおうと心を砕き、どうしたら上手く伝えられるかと言い回しを探したりもした。だが次第に、話せば誰とでも理解り合えるなどというのは幻想に過ぎないと思うようになった。
まだ幼さの残る彼には少々現実的な考えであるが、それがこれまでの経験で得た残酷な真実だった。現に、アロドやフィーリアに言ったところで笑い飛ばされるだけだったし、柾なら耳を傾けてくれるが、かと言って彼にはルミエルの不安を取り除く術を持ち合わせていない。
嘗て、師と呼んでいた人はこう言った。
「力のある者は孤独だ。孤独に堪え、慣れろ。理解らぬ者を責めてはいけない。真に理解り合えるのは、同じ力を持つ者同士だけなのだから――」
(蘭は………?)
ふと、回想から現実に戻り、ルミエルは目を上げた。
蘭はルミエルの顔を心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫か、ルー?そうだ、ココアでもいれてやろうか?」と、気分を変えて落ち着かせようと優しく声を掛けてくれる。
しかし、彼女に何と言えば良いのかわからなかった。どこから説明すれば良いのかわからなかった。第一、蘭にどの程度の力があるのか、笑わずに話を聞いてくれる人なのか、まだ判断出来ずにいる。かなり強い神力を感じる事があるのに、悪魔の気配を匂わせる事もある人なのだ。一緒に居ると安心するが、どういう人物なのか見極められない。
結局、ルミエルは機械的に頭を振っていた。「いい………」
そして、よろよろと力無く立ち上がり、「もう、ねる」と蚊の鳴くような声で言うと隠れるようにテントに潜り込んだ。
蘭は憐れみの籠った表情でテントの入口が閉まるのを見守ると、呆れた口調で、しかしどこかからかうように柾に言った。「ほら、怖がらせるようなこと言うからだぞ」
「あ?俺のせいなのか?」
「嘘でも、自然現象だから何ともないって言ってやれよ。ルーが見えにくいものに敏感だ、って言ってたのはどこのどいつだよ?」
「………そういや、そうだったな」柾は顰めていた顔をちょっとだけ緩めて目線を上げ、認めた。
でもさ、とアロドがここまでの道のりを思い返しながらゆっくりと言う。「くる途中に砂丘がなかったのは、本当だよな」
砂漠と一口に言っても、地形は様々だ。昨夜、野営したのはさ迷える湖と呼ばれる場所だ。元々は塩湖であったらしいが水はとうの昔に干上がり、ざらざらの湖底に塩の結晶が点在するばかりだった。その湖を抜けた後に難所が待ち構えていた。
小さな無数のヤルダンだらけで起伏は益々酷くなり、その隙間に溜まった砂の状態も悪い。火球が見つけた車で抜けられそうなルートでも、何度も砂にタイヤが填り、埋まっては押し出しを繰り返しながらの旅だった。
それでも力自慢のアロドがいるお蔭で、砂から脱出するのに手間取らなかった。
西の空を夕陽が真っ赤に染め上げる頃、その太陽の下に高い塔のような物が見えて来た。楼蘭の仏塔。何とか今日中に目的地付近まで辿り着く事が出来たのである。
奇妙な噂の絶えない古代遺跡。鳴き砂のようなこの音も、噂の一部だった。何処からとも無く不思議な声が聞こえ、導かれるように砂漠に迷い出て仲間と逸れ、帰って来なくなった者も多いという。一体、何処から聞こえて来るのだろうか。
三人は穏やかに沈黙し、同じ方向を見つめていた。この先に楼蘭がある。いよいよ明日、遺跡に足を踏み入れる。歴史の真実を明らかにする為に。そして噂の真相を確かめる為に。
柾が傍らの座り易そうなヤルダンに腰を下ろした。ベルトに差した刀がカチャリ、と音を立てる。アロドはさり気無く、ルミエルが空けた蘭の隣に座った。蘭はアロドを見上げた。改めて見るとでかい。子供のように小柄な蘭とはかなりの身長差があり、こうして並ぶと彼女の小ささがより強調される。
見つめて来る眼差しに気付き、アロドは緊張して押し黙った。男勝りな喋り方と性格とは対照的に、蘭は女らしい顔立ちをしていた。特に、澄み切った夜の色をした瞳は吸い込まれそうな位に美しく、見つめ過ぎるとぞくりと鳥肌が立つ。心の全てを見透かされるようで恐ろしく、それでいて否応無く惹き付けられる清浄さを宿していた。
アロドが視線を泳がせていると、蘭は頬杖を突き、甘く微笑みながら静かに言った。「こうやって並んで座ってるとさ………」
「…………うん?」
何を言うつもりなんだろう、とアロドはドキドキした。心臓が破裂しそうな勢いで鼓動している。
彼女の微笑みが、にぱっという底抜けに明るい笑顔に変わる。「親子みたいだよな。この身長の差。あははっ」
「………………」
楽しそうに笑う蘭に、アロドは言葉を失った。
(親子……オレが父親みたいだってこと………?)
彼女が気になり始めていただけに、この判定はショックだった。況してや、彼女は自分と同じ十八歳と言っていた筈だ。それなのに、そんなに自分は老けて見えるのか、とアロドは愕然と項垂れた。体の熱が、潮が引いていくように失われていく。頭の中で何かがガラガラと崩れ落ちた。
「あれ、アロド?お〜い?」
笑うのを止めた蘭がアロドの二の腕辺りをぺちぺち叩いて呼び掛けるが、彼はつんつん立った髪が地面に付きそうな程低く身を折り曲げ、暗く沈んだままだった。身長差を喩えただけで深い意味の無い言葉が彼に二重の衝撃を与えた事に、蘭は気付く筈も無かったのである。
深夜、ルミエルはもぞもぞと寝返りを打った。寝ると宣言してから数時間が経つというのに、さっきテントに入って来たアロドと柾の方が先に高鼾を掻いている。
(よけいに眠れない)
軽く苛立ちを覚えつつ、反対側へ寝返りを打つ。目を閉じてみても、ちっとも眠れそうになかった。
不意に、外からあの物悲しい音が聞こえた。ルミエルはぎゅっと目を瞑り、寝袋の端を頭の上まで引き上げて耳を覆った。傍から見ると人面芋虫のような恰好になったが、身体がすっぽり包まれていると安心出来た。
暫くするとぽかぽか温まり、瞼が重くなってうとうとして来た。ずっと求めていた平穏な眠りの訪れ。だが、ささやかな幸せは長くは続かなかった。
「!?」
全身が硬直した。ぐわーんと耳鳴りがする。気持ちの悪い違和感に、眠気は吹き飛んだ。身体が動かない。指一本、瞼一つ動かせなかった。胸の辺りが締め付けられるように苦しい。
耳元で低く呟く声がした。
「…………――。………――!」
何と言っているのか聞き取れない。呪いを唱えるようにぶつぶつ言う、怨念の籠った恐ろしい声だった。ルミエルの顔から血の気が引いた。見えない何かから逃れようと躍起になっていると、右の指先が動いた。金縛りに遭った時は指を一本ずつ動かすと解けると言うが、それは嘘だと思った。片手をぎこちない動作で胸の上に持って行けたのに、他の部分は動かせないままだ。その手が冷たく柔らかいものに触れた。
途端、彼は触らなければ良かったと後悔した。冷や汗が、毛穴という毛穴からどっと溢れ出る。胸にきつく巻き付いていたのは、人間の腕だった。骨と皮に痩せ細った腕が二本、ルミエルの両脇下の地面から生えるように突き出して、彼を抱き締めていた。地に引き擦り込もうとしているかのように。
「…………っ!………!」
助けを呼ぼうとしたが、唇が動かない。掠れた音が喉の奥から洩れただけだ。柾もアロドも気付いてくれる様子は無く、寝息と鼾が返事をするばかり。助けて、という声が空気を震わせる事は無かった。
動かない。頭も、腕も、足も。瞼さえもぴったり吸い付いて開かない――いや、それは不幸中の幸いだった。目を開けて、顔の真ん前に得体の知れないものがいたらそれこそ恐怖だ。見ないに限る。
「――!……――。………――……――!」
呪う声がぼそぼそと、有無を言わさず耳に入り込む。肌に粟が立った。
「つっ……!………っ!」
奥歯がカチカチ鳴る。巻き付く冷たい腕の表皮に接着剤が塗ってあるみたいに、彼の右手はそれに貼り付いて離れなくなっていた。恐怖で青ざめ、振り解こうともがいた。必死になればなる程、身体は意思に逆らい、生者の物とは到底思えない腕は更にきつく締め上げる。もう限界だった。
(………た……っ………助けて……)
ふっ、と力が緩み、耳鳴りが止んだ。ぶつぶつ言う声も遠退いた。ルミエルははっとして目を開けた。奇怪な腕は消えていて、もう苦しくない。指をちょっと動かしてみる。動いた。腕も動く。次は足の指。膝。動く。
はぁー、と息を吐いた。全身が怠い。頭を傾けると、微かに女の歌声が聞こえたような気がした。何故かはわからないが、怖いとは思わなかった。何処から聞こえるのか、誰のものかと疑問を持つ暇も無く、睡魔が襲ってきた。得体の知れないものとの格闘で疲れ切っていて、頭がぼんやりした。
目を閉じると、そっと温かい手が額に触れた。
「もう大丈夫だから、安心しておやすみ」聞き慣れた優しい声が囁く。
(蘭………?)
意識が遠ざかる。額に温もりを感じながら、ルミエルは眠りの中へ落ちて行った。