第五話 同じ(そら)の下で (1)


 熱い。熱い熱い熱い。
 眼界一面が火の海だった。その中に、(ラン)はぽつんと一人立っていた。足元一周りを残して、皆、燃えている。むわっとした熱気に全身から汗が吹き出し、肌は焼き焦げそうにちりちり痛み、熱を帯びる。炎がごうごうと激しく揺らめき、パチパチ音を立てて火花が散る。
 熱い熱い。苦しい。
 喉がからからに乾く。肺に取り込む空気までもが熱く、しかも徐々に酸素が減って黒い灰ばかりが喉に詰まる。息がしにくい。
 苦しい苦しい熱い苦しい熱い。
 呼吸の自由を奪われ、酸素が行き届かなくなった脳は悲鳴を上げる。頭が朦朧(もうろう)とした。だらりとぶら下がったままの手は、喉を押さえたいという衝動に逆らい、力が入らなかった。
 苦しいのは、息がしずらいからじゃない。火に焼かれそうで怖いからでもない。そんな事よりも、もっともっと苦しいのは――
 紅蓮(ぐれん)の炎は巨大な怪物の如く全てを飲み込み、全てを焼き尽くそうとしていた。バリバリバリ、と木だか家だかが燃え崩れる音がする。何も見えない。見えるのは、赤だけ。四方八方、真っ赤な火柱ばかりだ。
――燃えてしまった。皆、皆、燃えてしまった。皆、皆、()くなってしまった。
 蘭は呆然と立ち尽くす。頬を伝う涙も、すぐに蒸発してしまう。後から後から溢れ出るのに、この熱さの中ではすぐに乾いてしまう。足元をちろちろ舐める炎は彼女を飲み込む事無く、代わりに彼女の居るべき場所を、大切な人の居る場所を食い荒らし、燃やし尽くそうとしていた。
『苦しいか?』
何処(どこ)からとも無く、火球(カキュウ)が話し掛ける。くつくつと耳障りな笑い声と共に。
――ああ、そうか。これは夢だ。火球が見せている、昔の夢だ。
『苦しいか?もっと苦しめェ。地獄はこれからだ』
 ずずずっ、と地面を這って炎の中から出て来た何かに、足首を掴まれた。下を見た蘭は、ぎょっとした。叫びそうになったが、喉が乾きすぎて掠れ声すら出ない。
 火の壁の下から出ていたのは、黒く焼け焦げた、人の腕だったモノ。それが、蘭の足首をきつくきつく握り締めていた。
 蘭は身を屈め、巻き付いた指を一本ずつ()じ開けていった。小さく、細く、もうほとんど骨だけの手を両手で包み込む。熱い。その手は、無い爪を立てる様にして蘭の手に必死にしがみ付いて来た。 耐え切れぬ熱さに助けを()う様に。蘭も強く握り返し、頭を垂れてその手を額に押し当てた。声も出さずに蘭は泣いた。泣く事しか出来なかった。
『それが、お前の犯した罪だ。お前のせいで、皆、死んだ。生き残ったのは、お前だけ。ちっぽけなお前を守るために、皆、皆、死んだ』
 からからと嘲笑う声が、火の粉がパチパチ弾ける音に混じって聞こえる。業火は、益々勢いを増していく。
――そうだ。あたしのせいだ。この子に、あんな選択をさせたのも………。
『お前は生き残り、罪に背を向け、何もかも見捨てて逃げて来た。こいつらは許さねェだろうなァ。死んでいった奴らは、お前を許さねェ。皆、皆、お前を怨み、憎んでいる』
――………それは、違う。
『何?』
――この人達は、あたしを憎んでない。怨んでもいない。あたしの一族は、誰も憎まないし怨みもしない。誰のせいにもしない。
 涙は乾いていた。掠れていた声が、はっきりしていく。
――生き残れたのは、あたしにはやるべきことがあるからだ。過去を悔いて嘆いている暇なんかない。罪を犯したなら、償おうと思うなら、前に進まなきゃならない。あたしにはやらなきゃいけないことがあるから。そうじゃないと、この人達に顔向けできない。
『お前には、人間の感情がねェのか?!』
 火球の怒号で、炎が更に高く燃え上がった。
『罪を自覚しろ!悲しめ!苦しめ!お前のせいで死んだ奴らに、許しを請え!自分の生を呪え!自分の力を憎め!そして、そして………この火を、俺を憎め!』
 蘭は両手で握っていた手を、膝の上に置いた。不意に表情を和らげると、燃え盛る炎に向かって呼び掛けた。
――火の球を吐く竜だから、火球。
『あン?』
――あたしが付けた、お前の名さ。火球、これは現実にあったこと。でも、火は嫌いじゃないよ。怖いとも思わない。
 ボォオオオ、と炎が激しい音を出した。髪が熱風に(あお)られ、蘭は固く目を閉じた。
(火球、お前はあたしに勝てない。あたしは、お前を怖いと思わないから。化け物だとも思わないから。憎んでないから………)
 怒り狂う火は髪に燃え移り、皮膚を焦がし、喉を焼いた。
 熱い熱い苦しい苦しい熱い熱い熱い………暑い。
 暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い……………。


(暑い………)
 蘭はぼんやりと目を覚ました。背中が暑い。身体の下に何かずっしりした物があり、それに覆い(かぶ)さる様な体勢をしていた。
「じゃあ、――この子は…………の?」
「――けど、…………――」
 誰かの話し声がする。ざっ、ざっ、と砂を蹴る音も。
「…………ん?」
 蘭は(まぶた)を押し開けた。途端、痛い程の眩しい光が差し込んで、思わずまた目を(つぶ)る。 何度か(まばた)きして目を慣らしてから、頭を起こした。鼻先にあったのは、つんつん立った(あか)い髪の毛。
「よ。気付いたか?」
 下の方で声がした。良く見ると、アロドに背負われているのだった。
「大丈夫?気分はどう?」
 そう訊かれて、蘭は右側へ首を回した。何時(いつ)もより低い位置から、フィーリアとルミエルが見上げている。何だか、背が高くなった気分だ。
 周りは、見渡す限り砂ばかり。太陽が真上からじりじり照り付ける中、汗だくになって野営地へ向かって歩いている所だった。
「外…………?」蘭は寝起きの掠れた声で言った。
「ああ。お前がぶっ倒れた後、階段が元に戻ったから出て来れた」と、左の方で(まさき)が簡潔に説明する。此方を見ようともせず、歩調だけは皆に合わせて黙々と歩きながら。
「宝はどうしたんだ?」
「宝?置いてきたわよ。(ひつぎ)も壁画も」フィーリアがきょとんとして答えた。何でそんな事を訊くのかわからない、という顔だ。
「悪魔はもういないんだから、持ってきたって良かったのに」
「オレはそう言ったんだぜ」アロドが即座に答えた。「けど、コイツらがきかなくってよー」と、ルミエルとフィーリアへ(あご)をしゃくる。
「だって、なにも盗らないって悪魔に言ったばかりじゃないか!」
「そうよ!いなくなったからって持ち逃げして、呪われでもしたらどうすんのよ?」
「そんなことありえねーよ……たぶん」アロドは否定したが、やや自信が無さそうだった。
 蘭はクスッ、と小さく笑った。周囲に反対されたら、自分の意見を押し通せない。アロドは、そういう奴だ。
「人が良いな。お前も」
 耳元で、蘭が溜め息の様に囁く。吐息が耳を(くすぐ)り、髪の優しい香りがふわっと漂った。アロドは赤くなって、視線を落とした。
「顔が赤いよ?熱あるの?」
「うっ、あ………そ、そりゃ、暑いからな!」フィーリアの陰からひょこっと首を出して覗き込むルミエルに心配そうに指摘され、アロドは慌てて誤魔化(ごまか)した。
 小さく微笑んでいた蘭の表情が、急に(ゆが)んだ。身体が熱い。最初は日差しのせいだと思っていたが、それだけでなく体の内側からも熱を発している様だ。体内で業火が猛り狂い、内臓が焼けてしまいそうに熱い。
(火球…………)
「どこか痛む?」
 表情には出さない様にしていたつもりだったが、フィーリアに気付かれた。眉をハの字にして見つめて来る彼女に、蘭は首を振って見せた。
「何ともない。もういいよ、下ろして。自分(てめえ)で歩けっから」
「え?けど………」と、アロドが不安気に頭だけで振り向いた。
「まだ顔色悪いわよ。それに、もうすぐ着くし」
「なら、尚更歩ける」
 二人の制止を拒み、蘭はアロドの背から滑り降りた。ところが、二、三歩進んだ所で風景が消えた。アロドもフィーリアも柾もルミエルも、皆、消えた。全てが赤に染まる。空も大地も、真っ赤に燃えている。 何時の間にか火柱に囲まれた不安定な崖の端に立っていて、その下では炎の触手が手招きしている。
(えっ……………?!)
 踏み止まろうとして力が入らず、蘭はよろめき、そのまま崖下へ落ちて行く――
 と思った時、側頭部を支えられた。同時に、真っ赤な景色は青空と砂漠のある現実の景色に戻った。
 蘭の頭を片手で受け止めた柾は、ぐいと力を入れてアロドの背へ押し返した。
「ぐっ?!」顔面をぶつけ、蘭は苦しそうな声を上げた。
「大人しくおぶさってろ」
「………もうちょっと丁寧に扱えよな」蘭は鼻を押さえて(うめ)いた。
 フィーリアが苦笑いして、アロドの肩を叩きながら蘭に言う。「バカ力だけが取り柄なんだから、使ってやって」
「へいへい。悪かったな―」口を尖らせ、アロドは腰を屈めた。
 言う事を聞かない身体に軽く苛立ちを覚える蘭だったが、今は彼に頼るしかなく、両腕を彼の首に回した。

 車が作る日陰に座って冷たい水を飲み、五人は休息を取った。テントで休んだら、とフィーリアに勧められたが、蘭は断った。
「病気じゃないんだから、寝たって治らないよ」
「そうだね。悪魔を身体から出さないかぎり」深刻な表情でルミエルが頷いた。「なにをしたの?火球となんの契約をしたのさ?」
 アロドとフィーリアも、(たま)らず口を開いた。
「オマエん中に入ってった悪魔は出せんのか?」
「ルッちゃんから大体の話は聞いたわ。あの、竜みたいな悪魔との契約のことも――」
「俺を呼んだかァ?」
 突然、不気味な声が何処からか聞こえ、フィーリアは喉を詰まらせた。
 全員が息を潜め、耳を澄ませていると、その声はくつくつ笑いを漏らした。「説明に俺が必要だろゥ?」
 蘭は怠そうに頬杖を突き、「要らないっつったって、口挟む気だろ?」と言った。
「その答え方は、“イエス”ってことだな」
 目の前に黒煙が広がった。新しく取り込んだ悪魔の力が加わったからか、普段の三倍は膨れ上がり、遥か頭上から竜の首が伸びて来て蘭達を見下ろす。血の色をした目に(えぐ)る様に見つめられ、四人は体温が一気に下がって行く思いがした。
「悪魔と契約するとなァ、お前らの心の奥底にある願いを叶えてやる。何でも、どんな願いでもなァ。ただし、引き替えになるモンを寄越(よこ)せ。願いの代償に相応(ふさわ)しい価値のあるモンを。一番大事なモンを。そうすりャ、どんな願いも叶えてやるぜェ。悪魔に出来ねェことはねェんだ」
「どんな願いも………」
「叶えてくれる………」
 それは、とても魅力的な甘い甘い誘惑だった。願いを何でも叶えてくれる。そう猫撫で声で囁かれると、巨大でおぞましい姿も言葉の裏に見え隠れする悪意も気にならなくなってしまう。キャラメルやキャンディーの様に甘く(かぐわ)しい、心引かれる話だった。
 火球の罠に()まりそうになっているアロドとフィーリアに、蘭が警告した。「おい、あんまり真面目に聞くなよ。軽い頭で契約して廃人になったり、命取られた奴だっているんだから」
 柾が口の端を引き()らせた。「お前に言われても、説得力ねえよ」
「はんっ。あたしがこんなのに負けるか」
「強がりにしか聞こえねえ」
 柾の呟きに、火球はゲラゲラ嗤った。「そうさァ。お前はもうすぐ終わりだ。後、半日でな」
 蘭はぐいっと(あご)を持ち上げた。「なら、せいぜいそっちに専念しろよ。べらべら余計なこと喋ってないで、引っ込め。忙しいんだろ?」と、吐き捨てる様に言う。
 火球は一層、狂った様にゲラゲラ嗤い転げ、彼女目掛けて突進し、吸い込まれて消えた。
 すると、蘭の視界にまた炎が上がった。かと思うと、次の瞬間には砂漠に戻る。目がちかちかし、頭に鈍痛が広がった。
「半日?どうして半日なんだ?」ルミエルが警戒を含んだ栗色の瞳を細めて、訊いた。
「十二時間後に、取り込んだ悪魔が身体から抜けるんだ。あいつは、その前にあたしを弱らせて自由になりたいのさ」額を押さえ、蘭は言った。「だから、平気だ。時間が来るまで耐えればいいだけだから」
「そうは言うけど、辛そうじゃない………」フィーリアが蘭の腕にそっと触れた。
 たったそれだけの事が、蘭の目には違う風に映った。彼女はまた燃え盛る炎の中にいて、隣で人が――人だったモノが燃えていた。焼け(ただ)れた人間の手がぬっと現れ、腕に絡み付く。 一瞬、ぎょっとして目を()いた彼女はすぐに気を落ち着かせ、目を伏せた。その手に自分の手を重ね、瞼を開く。
 すると、元の景色に戻り、触れている手も温かさのある生きた人間の手に戻った。その手の主、フィーリアは空色の瞳を潤ませて蘭を見つめていた。
 蘭はきゅっと口角を上げて見せた。「平気。平気だから、心配すんな」
 彼女にというより自分に言い聞かせる様に、蘭は言った。
 一分が何時間にも感じ、一時間が何日にも感じた。


     
web拍手 by FC2    
inserted by FC2 system