第二話 胡蝶と青蛾 (1)


 乾いた肌色をした煉瓦(れんが)造りの家々を、朝日が赤く照らし出す。
 (ラン)とフィーリアが食堂に降りていくといくつかあるテーブルのうち一つはすでに男達で(にぎ)わい、慌ただしく朝食を取っていた。朝食のメニューは小さく切った皮蛋(ピータン)を乗せたお粥だ。薄味のお粥に皮蛋の独特の風味と塩気が効いて、寝起きのお腹に染み渡るようだった。 初めて皮蛋を見たフィーリアは卵どころか食べ物とは思えぬ彩りに衝撃を受け、「腐ったアボカドをくり抜いて、周りをコーヒーゼリーで固めたようね」と辛辣(しんらつ)な感想を述べた。
「あいつら、起きて来ないわね」
 フィーリアがスプーンを置いて言った。脇に押しやった小皿には鮮やかな緑のグラデーションをした黄身が、きちんと積み上げられている。
「夕べは張り切ってたのにな」蘭は最後の一すくいを口に運んだ。
 フィーリアが言うにはアロドとルミエルは早起きが苦手だが、(まさき)が叩き起こしてくれるので時間に遅れる事は滅多にないそうだ。今日のようにいよいよ目的地に着くであろうという日は特に。
「ちょっと様子、見てくる」
「じゃあ先に部屋に戻ってるよ」
 二人は一緒に席を立った。

 整えたベッドに座り、蘭は持ち物を点検し始めた。衣装に(しわ)が寄らないよう注意しながら中身を入れ直す。
「ハンター共に付いてきゃ良いのによゥ」
 黒い煙が(から)みついて来て、言った。
「いいんだ。さっき食堂にいた人達に頼んでみる。すぐ出発しそうな感じだったから、今行けば間に合う」
 新しい町に着く度に、車でも駱駝(らくだ)でも乗せてくれる人を探していくつもりだった。仲間が欲しいとは思わない。移動手段さえ何とかなれば後は一人でやっていける。
「そんなに他人と()れ合いたくねェのには理由があンのか?」
 蘭は答えなかった。下を向いたまま手を休めず、口元だけ微笑んでいる。
「他の人間を巻き込みたくねェからか?」
 火球(カキュウ)はべたつくような笑みを広げ、恍惚(こうこつ)として言う。「もし俺が自由になったらまずはお前、その次はお前の近くにいる人間から邪気に(まみ)れていくだろうなァ。俺はそんじょそこらの雑魚(ざこ)悪魔とは違う。悪魔に対抗する力を持たねェ人間なら、死よりも辛い苦しみを味わうだろうよ」
「契約を解く気なんかないね」
「そう言ってられンのも今のうちだ」
 (しゃく)に障る声で悪魔は続ける。
「俺が危険察知機になる代わりにお前は力の源である聖気をわざわざ邪気に変換し、血を通して俺に与え続けた。弱まっていた俺の力はお前の並外れた神力に追い付こうとしている。そろそろしんどくなって来たんじゃねェか?」
 聖気は邪気と相反する気であり、本来は悪魔には毒だ。そこで火球は蘭が持つ聖気を自分の力に変えて取り込めるようにすることを契約の条件にした。聖気を取られ続ければ体力も精神力も弱っていく。彼女が音を上げ、契約を解除すると言えば火球は蘭の魂と残りの力を奪うつもりでいる。そうすれば彼は自由の身となるばかりか永遠に存在し続けられる。
 だが契約主である蘭自ら宣言しなければその野望は叶わず、彼女に死が訪れる時に火球も消滅してしまう。
「お前に負ける程、あたしは(やわ)じゃないぜ」と蘭はきっぱり言った。
「まァそう無理すんな。時期に俺と居るのがもっと苦しくなってくる。楽になりてェと思うようになるだろうよ」
「どうだか」
 蘭は軽く鼻を鳴らし、(しずく)形のワンショルダーリュックを肩に掛けた。飲み水のボトルを三本も詰めたせいで形は(ゆが)み、かなり重くなっていた。
 別れの挨拶くらいはしたいのにフィーリアが戻って来ない。蘭はアロド達の部屋へ行ってみようと廊下に出た。
 甲高い声が耳を(つんざ)く。
「もう、もう!信じらんない信じらんないっ!!」
 向かいのドアから聞こえる。何か()めているらしく、フィーリアが怒り狂っている。
(入りづらい…)
 だが、収まるまで待ってもいられなかった。蘭はおずおずと中を(のぞ)き込んだ。
 すぐそこにフィーリアが背を向けて立ち、アロドと対峙している。柾は椅子に後ろ向きに(またが)って背もたれに頬杖を付き、ルミエルは奥のベッドにちょこんと座って二人を眺めている。
「あのさ、取り込み中悪いんだけど。あたしはそろそろ…」
 言い終わる前にフィーリアがぐるっと振り向いた。凄い剣幕に流石の蘭も一瞬たじろいだ。空色の瞳を爛々(らんらん)と光らせ、「聞いてよ、蘭。アルが!」とアロドにビシッと人差し指を突き付けて言った。「旅の資金、全部使っちゃったって言うのよ!」
「へ?」蘭は目をぱちくりさせた。
「頼むから大声出すなって。頭にキンキンくる…」アロドは顔色が悪く、こめかみを押さえて(うな)った。
「昨日、景気付けに飲みに行ったんだ。ほら、ここのワインはうまいって言うし。なぁ?」と、フィーリアの冷ややかな視線から逃れようと柾の方を向いた。当の柾は味方をする気は更々(さらさら)無いらしく、ムスッとしたまま何も言わない。
 仕方なくアロドは続けた。「確か、酒場の客と()けをして…よくおぼえてねーんだけど、とにかく負けっぱなしだったんだ。で、足りなかった分をちょっとだけ借りるつもりが…」とばつが悪そうにでかい体を縮こませる。
 初対面の人間と飲み明かすとは誰とでも仲良くなれるタイプらしいが、それが裏目に出たようだ。
「柾は一緒じゃなかったの?」フィーリアは今度は柾を(にら)み付けた。
「一杯だけ引っ掛けて先に帰った。話が盛り上がってたみてえだし、まだ飲んでくって聞かなかったからな」
「何で連れて帰らなかったのよ?!用心棒(ボディーガード)でしょ、あんたは。ちゃんと面倒見てよ!」
「俺は保護者じゃねえっての。大体、この野郎に金持たせておくのが間違いだろ」
「持たせてないわよ!」
「なら何故、こいつが使ってんだ?てっきりお前が持ってると思ってたぞ」

 ……………

 急に静かになった。

「で、どこに保管してたんだ?」
 蘭の問いに、アロドとフィーリアは同時にモゴモゴと答えた。
「…………車の中」
(マジかよ)
 蘭は額に手を当てた。
 車の(キー)をアロドが持っているとなれば、もう彼に預けたも同然だ。柾とルミエルもついに怒りを爆発させた。
「車に置いとく奴があるか?!()ってくれって言ってるようなもんじゃねえか!」
「だってあんな大金、部屋に持ってくの怖かったのよ!」
「どうするのさ?!これじゃ宿代だって払えないよ!」
 ルミエルの発言に全員が硬直した。出発出来ないどころか、これからの生活が危ういという事実が彼らを襲う。
 アロドが(ひざ)に手を付いて項垂(うなだ)れ、言った。「悪い、悪かった。オレが責任持って稼いでくるから」
「あったり前でしょ!」
 フィーリアにバチンと後頭部を殴られ、アロドは低い(うめ)き声を上げた。二日酔いの彼にとっては相当効いたらしい。
「とっとと仕事探すわよ。柾、ルッちゃんを宜しく」
 自分より頭一つ分は大きい彼の襟首(えりくび)(つか)み、フィーリアは大股に出て行った。引き()られながら「まだ朝飯が………」と弱々しく(つぶや)く声は彼女の耳には届かない。
(何だか行きづらくなっちゃったなぁ)
 残された蘭はどうしたものかと腕を組んだ。ここまでタダで車に乗せてもらった手前、自分だけ出発するのは気が引ける。
 空腹を訴える奇妙な音が静寂を破った。カーキーのブーツを()いた足をぶらぶらさせていたルミエルが、情けない顔をして柾を見た。柾はニヤリとして「朝飯、食いに行くか?」と訊く。
「うんっ」ルミエルはぴょんとベッドから飛び降りた。
 柾は立ち上がって刀を取り、腰に二重に巻いたベルトに差した。黒塗りの倭刀(わとう)を彼は肌身離さず持ち歩いているようだ。
 蘭は思い付いて言った。「あんたらここに居るならこっちの部屋の鍵、預かっといてくれない?」
「ああ。行くのか?」
「一稼ぎして来る。ここまで連れて来てもらったし、少し手伝うよ」
 すると柾は糸を張ったような目を益々(ますます)細めた。「あ?そんなの気にすんなよ。それより早く逃げた方がいいぜ」
 蘭はぎくりとし、耳を疑った。この男、蘭が逃亡中の身である事を知っているのだろうか。それにしては()いた言い方では無かったが。
 蘭が意味を解しかねていることに気付いたのか、彼は「だからさっきの見てただろ?あいつらは――」と言い掛けて思い直し、ちっと舌を鳴らして「何でもねえ」と呟くだけにした。どうやらアロドとフィーリアの事で何か言いたかったらしく、正体がばれた訳では無いようだ。
 安心した蘭は二人に笑い掛け、「じゃあ、これ――」と鍵を放った。柾が素早く受け止める。
「頼んだ」
 空いた手を背中越しにひらひら振って、蘭は部屋を後にした。
 すぐに火球が右肩にぬっと頭を出した。「少し手伝う、だと?」
「二、三日位なら構わないさ」蘭は早足で答える。
 火球は「もうちょっと自分が置かれている状況を自覚しろよ」と小馬鹿にした言い方をしつつ、満足気に含み笑いした。

(まただ)
 ルミエルはドアに目を走らせた。ぞくりと震えが駆け抜ける。この感じは知っている――すぐ(そば)で感じたのはつい昨日のことだ。
(悪魔の気配………!)
 駆け寄ってドアノブを回し、勢いよく廊下に顔を突き出した。
 誰も居ない。一瞬だけ感じた邪気は跡形も無く消えている。
「どうした?」
 立ち(すく)むルミエルの後ろから柾も廊下を覗き、彼の視線を追った。ルミエルは蘭が通ったであろう方向を隅々(すみずみ)まで見つめていた。
「あの人って本当に妖力持ちだと思う?」
「さあな。変わった色の髪してっから、そうなんじゃねえの?」
 柾はどうでも良さそうに肩を(すく)めた。「どっちにしろ、とんだお人好しだぜ」

 そう、この時の蘭は彼の忠告の意味を理解していなかった。いや、まだ理解出来る(はず)も無かったのである。


     
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