第二話 胡蝶と青蛾 (2)


 高昌(トルファン)の町には無数の地下水路(カレーズ)がある。山脈がもたらす雪解け水は血管のように張り巡らされた水路を通り、地上に流れ出る。コポコポと涼やかな音を立てる水路と平行に走る道の両側には、ポプラ並木が続く。その木陰を馬車ならぬロバ車がゆったりと行き交う。車と言っても屋根の無い質素な二輪車で、民族衣装を着た人が四、五人乗っている。
 何台ものロバ車と()れ違い、好奇心いっぱいに眺めながら歩いていくうちに市場(バザール)辿(たど)り着いた。朝の市場は少しずつ(にぎ)わいを見せ始めていた。色取り取りの天幕の下には食料品や日用品の屋台がずらりと連なる。
「うわぁ…」(ラン)の口から溜め息が()れた。
 ありとあらゆる香辛料が大きな袋に(こぼ)れんばかりに詰まって並べられている。山積みになった肉入りサモサの屋台の前で、四角い帽子を(かぶ)った男が立ち止まっている。目の覚めるようなショールの女がワインの品定めをしている。売り子の威勢の良い声が飛び交う。
 蘭は右へ左へきょろきょろと頭を振り動かした。ドライフルーツの屋台を通り過ぎようとした時、火球(カキュウ)がぼんやり姿を現し、するすると近寄って行った。胡桃(くるみ)やナッツ、干し杏子(あんず)が山と積まれている。
「見ろよ、これ」と彼は鼻に(しわ)を寄せて手を伸ばした。一掴(ひとつか)みの干し葡萄(ぶどう)が宙に浮かび、ぼろぼろに()ちていったので売り子の少女は口を半開きにしてその場に凍りついてしまった。
(ぎゃあ!このバカ蜥蜴(とかげ)っ!!)
 蘭は大慌てで火球が掴み取った辺りの干し葡萄(大半が食べられなくなっている)を(すく)って袋に入れてもらい、放心状態の少女に紙幣(しへい)を握らせた。
「お前なぁ。勝手に出てくんなって言ってるだろ」
「どうせ見えねェんだから良いじゃねェか」火球は耳を貸さない。
 悪魔は食べるという行為を必要としない。食べようとしても味わう前に腐り果てて消えてしまうのが(おち)だ。そう考えると火球が興味を示したのは食べたいからではないだろう。
「人間ってのは妙な生き物だよなァ。葡萄をこんなミイラにして食うのか」と彼は面白がってケタケタ笑った。
「食欲が失せる表現を使うな」蘭はげんなりした。
 干し葡萄を袋ごと丸飲みにする火球の姿も声も、買い物を楽しむ善良な人達に感付かれないのは幸いだった。
「それで?“胡蝶(コチョウ)”で舞うつもりかよ?」
「う〜ん………それはちょっとまずいかも」
 たった一日でここまで来ているとは捕吏(ほり)も思っていない(はず)だ。敦煌(ドゥンファン)から高昌の間には町が三つある。そのどこかで血眼(ちまなこ)になって探し回っているに違いない。彼らにはもう少しゆっくりしてもらいたいので、ここで居場所をアピールするようなことは避けたかった。
 市場を進んでいくと服や小物を売る店が増えてきた。何十着もの回紇(ウイグル)族の衣装が揺れる店の前で蘭は立ち止まった。この地方の踊りは漢とはまた違うものなのだが、踊り方は習っていた。明るい色合いの布の山を()き分け、舞踏用の衣裳を一揃(ひとそろ)い選ぶと早速、店の裏で着てみることにした。蘭は蝶柄のバンダナを(ほど)いた。隠しピンも全部取ると胸までの長さしかなかった髪は、尻の下まで落ち掛かった。

「あ〜つ〜い〜」
 徐々(じょじょ)に日が高くなってきた。気温三十五度。標高が低いため昼夜の気温差が激しく、昨晩の寒さが嘘のようだ。派手な衣裳が人目に付かぬようマントで体を(おお)っているせいで、日焼けは防げるものの余計に暑苦しい。蘭はじわじわと汗が噴き出すのを感じながら、だるそうに歩いていた。とても外で舞う気にはなれない。
 そんな彼女の心の中を読んだかのように火球が「あそこはどうだ?」と一軒の店を(あご)で差した。
「あの店?」
 古びた小さな料理屋が、店と店との間に申し訳なさそうにひっそりと建っている。道行く人はその料理屋を完全に無視するか、あるいは伸び放題の雑草を見るような目付きで足早に通り過ぎていく。誰もがその店を意識しないよう努めているのがひしひしと伝わって来た。
 何かあるな、そう直感した。
 異国風の音楽が流れる店内は、壁も床も染みだらけだ。正面にカウンター席があり、奥の厨房(ちゅうぼう)からは湯気(ゆげ)がもくもく立ち昇り、三人分の影が動き回っている。右側にはテーブル席がいくつかあった。
「あら、ごめんなさい。まだ準備中なんです」
 やけに聞き覚えのある明るい声に(むか)えられた。エプロンを付け、金髪を耳下で二つ結びにした女が、テーブルを()く手を止めて此方を見た。
 蘭はげっ、と声を上げそうになった。
(リア………っ!)
 まさか、と目を走らせると厨房で(あか)い色のつんつん頭が忙しそうに見え隠れしていた。
 アロド達には踊り子である事を言っていないし、言わないつもりだった。フードを引き下ろしているお陰でまだ気付かれてはいない。(きびす)を返そうとした時、「何っ、客か?!そろそろ開けようと思っていたところだ。行かないで、ちょっとそこに座って待っててくれ」と店主が厨房から転がり出てきた。鈍い紫色の髪を短く刈った大柄な男で、水気を帯びた極薄い青の瞳が必死に訴え掛ける。
「こんな店に来てくれる客なんて滅多にいないんだ。頼むから、ほら、メニューでも見て待っててくれ」
「えっ?あの――」
 店主は蘭を無理矢理カウンター席に座らせた。火球がニヤニヤしながらマントの下に(もぐ)り込んで消えた。
(こうなったら、やってやろうじゃんか)
 蘭の中で別人格のスイッチが入った。(なめ)らかに立ち、店主に向き直っていつもより(つや)のある声と口調で言った。
「あたしは客として来た訳じゃなく――」
 店主の顔に暗い影が差した。蘭は手短に用件を言い切った。「ここで踊らせてほしいんです」とフードを取り、マントを脱いだ。
 店主とフィーリアは息を()んだ。
 梔子(くちなし)の実で染めた足首丈のワンピースは、袖口と(すそ)に黄緑のぼかしが入り、金のコインが()い付けてある。ビーズと糸で刺繍(ししゅう)した茶のベストと鮮やかな帽子。 黒に近い藍色の髪は六本に編まれ、腰まで垂れている。柳葉(やなぎば)のように細い眉と紅の唇。切れ長の大きな目は悪戯(いたずら)っぽく輝いている。
 程無くして、フィーリアが「あれ?」という表情を浮かべた。厨房から(のぞ)いた緑の髪の若い男はひゅうっと口笛を吹いたが、アロドの方は数秒後に目を丸くした。「あっ?!」と指差す彼が何か言う前に、蘭は先手を打って名乗った。漢で馴染(なじ)み客が付けてくれた、知る人ぞ知る“胡蝶”の異名。
青蛾(セイガ)と申します」
 首を少し(かし)いでにっこりする。帽子を(ふち)取るコインがしゃらん、と鳴った。
「あ、ああ。おれは店主のジャガット。そこの緑頭が息子のクトで、(あか)髪の子はアロド」とジャガットはどぎまぎしながら後ろを指した。「で、この子がフィーリア。この二人は新入りのバイトだ」
 知ってます、と苦笑しそうになるのを(こら)え、青蛾は真面目腐って「(よろ)しく」と言った。
 アロドが咳払(せきばら)いした。「前にも会ったことない?」
「初めてお会いしたと思いますけど」
 青蛾は余所余所(よそよそ)しい返事をした。
 フィーリアとアロドは戸惑い、頭を突き合わせてひそひそ話した。
「蘭、だよね?」
「いやー………笑い方とか雰囲気が違うような」
 似ているだけで別人かもしれない、と思い始めているのは明らかだったので青蛾は二人の方を見ないようにした。
「だがな」とジャガットは長々と息を()いた。「うちは見ての通り、この町で唯一、妖力持ちが経営する店だ。わずかな妖力持ちが客になってくれるだけで、大半の人間は近付こうともしない。つまり――ここで踊っても(もう)けは期待できそうにないが」
「そんなにお客さん来ないの?」冗談でしょう、という風にフィーリアが訊く。
 ジャガットは(かぶり)を振った。「妖力持ちを差別するのはとうの昔から法律で禁じられているが、それでも未だに根強く残っている。“悪魔より授かりしもの”。誰が言い出したのか知らんが、恐ろしい力だとはおれだって思う。物心付いて髪や目の色で自分は妖力持ちだと気付いた時、力をどうやって使うのか、どうやって制御するのかなんて教えてくれる人はいない。 教えようったって無理だもんな。その上、下手すりゃ人の命も危険にさらしかねない。使い方を自分自身で見つけられなきゃ気が変になっちまう。妖力は持ってみないとどんなものかわからない。持たない人間にとってはわからないことだらけだ。わからないから怖い。怖いから排除しようとする。別にとがめようってんじゃない。身を守ろうとするのは本能的なものだからな。ただ………妖力と妖力持ちが生まれてくる理由を暴かない限り、差別はなくならないだろう」
 店中がしん、となった。
「でも………知らなかった、じゃ済まされないこともあるわ」フィーリアがぽつりと言った。
 青蛾は彼女に目を()った。フィーリアの澄んだ瞳の後ろには、何か暗いものが隠されている気がした。
「親父の作るメシ、(うま)いんだけどな」食べに来てくれないなんて損してるよ、とクトが腕を組んで(うな)った。
 するとジャガットはのろのろと厨房に入って行った。(かまど)の所で(かが)み込み、息を吹きかける。ゴオッという音と共に口から炎が吐き出された。おおっ、と周りから驚きの声が上がる。
蝃蝀(テイトウ)に入ってくれたら団長が喜びそうだな)
 青蛾は感心した。遊芸人向きの人材である。
 絶妙な火加減で鉄の鍋を振り、ジャガットは鶏肉の炒め物を作ってくれた。香ばしい匂いが一面に広がった。唐辛子たっぷりでフィーリアは口にした途端、涙を浮かべたが、アロドはうまいと絶賛した。
 青蛾も食べてみる。「好吃」と思わず漢の言葉が口を()いて出た。きょとんとするアロドに、青蛾はカウンター越しに甘い笑顔を向けた。「美味しいってこと」
 突然、破壊音が(とどろ)き、地面が軽く揺れた。フィーリアは飛び上がり、厨房にすっ飛んで行った。
「何やったのよ?!」
 アロドは髪の毛と同じ位、顔を赤くして「すんませんすんません!」とぺこぺこ平謝りした。ジャガットはというと目を点にして床を見つめ、怒ることをすっかり忘れてしまっていた。「一体、どうやったらこんなことができるんだ…?」
 青蛾に見とれて、何気無く下ろした手が調理台に積まれた皿を叩き落としたらしい。妖力が宿る腕で落とされた皿は幾何学的(きかがくてき)な形の欠片となって一つ一つが床板を突き破って深く食い込み、見事な円形のモザイク画を作り出していた。
 クトがげらげら笑い転げた。「こりゃいいや。破片を掃除する手間がはぶけた」
 参ったな、とジャガットは床を()でた。欠片を抜くなど到底無理だが、角は出ていないので上を歩いても大丈夫そうだった。笑い声に取り囲まれ、しゅんとしていたアロドもほっとしたように顔を上げた。
 その時、入口から回紇(ウイグル)の四角い帽子を被った老人が入って来た。おや、と足を止め「今日は賑やかだね」とジャガットに言い、ほろほろと目元を(ほころ)ばせた。

 青蛾はカウンター席に老人と座り、話をしていた。彼は食事を終えており、空の皿が置かれたままになっている。これを下げるのはフィーリアの仕事だが、今は戸口に立って客の呼び込みをしている。だがどんなに声を張り上げても、避けるように顔を(そむ)けて去って行く人ばかりだ。
 食べに来ないなんて損してる、というクトの言葉を青蛾は思い出していた。
(そろそろ本気出すとするか)
 瞳を燃やして立ち上がり、厨房で暇そうにうつらうつらしている店主に言った。
「ジャガットさん。あたし、踊ります」


     
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