第二話 胡蝶と青蛾 (3)
ジャガットは頭を起こし、うっすらと目を開けた。「ありがたい。店の前で踊ってくれるかい?そうしたら客の一人や二人、捕まえられるかもしれないな」
「いいえ。ここで踊ります」
ジャガットの眉が跳ね上がった。スープの出汁を味見していたアロドとクトも一斉に振り向いた。
「見てくれる客はこのご老人しかいないよ」
そう言われても青蛾は引き下がらなかった。外で踊っても意味は無い。町の人達は遠巻きに眺めるだけで中に入ってはくれないだろう。青蛾の客ではなく、この店の客になって貰わなければ。
狭い店内を見回した。舞台になるような場所は無い。青蛾はテーブルを二組、脇に押し遣って踊れるスペースを作った。
目を閉じ、呼吸を整える。
舞台は無い。だからこそ良いのかもしれなかった。客席と舞台を仕切るものは何も無く、店と外を仕切るものも無い。この町全体が彼女にとっての舞台。余す所無く力を発揮させられる。
BGMの軽快なリズムに合わせ、青蛾はくるくる舞い出した。スカートの裾が円形に広がり、コインがちりちり音を立て煌めく。なよやかに腕を曲げる。
誰もが息を詰めて見つめていた。
「魂の叫びを舞えるかね?」老人がしわがれた声で訊いた。乳白色がかった黄色の目が鷲のようにきらりと光った。
「ええ」青蛾はくるりと回りながら答える。
老人は足元の琵琶に似た弦楽器ドゥッタールを手に取り、爪弾き始めた。クトが慌ててBGMを止めた。新たな曲が加わると、青蛾の舞もテンポを速めた。
魂の叫びは激しく切ない曲調だった。舞は曲に合わせて演じ分けるもの。物悲しい曲なら表情と動作にも悲哀を込めて表現するのが常である。だが、青蛾は敢えて、曲に込められた憂いの気配と自分の舞を合わせなかった。
狂おしい程悲しい旋律であるにも関わらず、喜びと希望に満ちた想いを体一杯で表し、とても楽しそうに見えた。
青蛾の想いが、神力が店を抜け出し、町中に広がっていく。
通り掛かった人が歩みを緩めた。急に奇妙な感覚に襲われたからである。周りを見渡し、心惹かれて止まないものが小汚い、妖力持ちの料理屋だとわかると嫌悪を顕にし、渋い顔付きになった。妖力持ちに対する偏見の根は深く、解きほぐすのは容易では無い。妖力で悪事を働く人間はいる。けれど良い事に使おうと努力している人間もいる。そしてこの店の人達は後者だという事も知って欲しかった。
店から距離を置いて立ち竦む人々に青蛾が舞う姿は見えず、ドゥッタールの音も聞こえない。それでも見えない何かに惹き付けられ、中に入ってみたいという衝動に駆られていた。無理強いする感じではなく、この機会を逃せば二度と拝めない物が待っているような、そんな感覚だった。だが、店に入る事への抵抗もあり、人々は躊躇い、地に足がくっついてしまったように立ち竦んでいた。
数人の男が意を決して歩を進めた。恐る恐る入口から覗いてみると、美しい踊り子が長い髪を揺らして踊っていた。音楽も快い。フィーリアに案内され、彼らは緊張した面持ちで席に着いた。それを皮切りに、迷っていた人が次々と店に入って来た。人々は最初は踊りに見入っていたのだが、知らず知らずのうちに鼻をひくつかせ始めた。何せ、ここは肉の焼ける匂いや香辛料の香りで満たされている。これに抗える人間はいないだろう。
今までに経験した事の無い忙しさに厨房は大混乱となった。息吐く暇も無いのに、ジャガットとクトは嬉しそうに料理を作り、次々に出していく。アロドは危なっかしい手付きで大量の皿を洗っていた。席はすでにいっぱいで、フィーリアも注文を取るのに駆け回っている。
青蛾が踊り終えると拍手の渦が彼女を取り巻いた。ドゥッタールの老人が帰ってしまっても、楽器を持った人が代わる代わる現れてはせがむので二度、三度と繰り返し舞った。
何時の間にか外には長い行列が出来ていた。
(あたしの出番は終わりみたいだな)
残念がり引き留める声を背中に受けながら、青蛾は除けていたテーブルと椅子を元に戻した。厨房に行き、目まぐるしく働く店主に向かって騒音に負けないように大声を出した。
「もう終わりにしますね。テーブルは戻しておきましたから」
「何だって?まだ居てくれよ。お客さんも喜ぶ」
彼は鉄鍋に野菜を放りながらそう言ったが、青蛾は首を振った。「外にも並んでいる人がいます。席が足りないと待たせてしまうでしょう?なるべくたくさんの人に食べさせてあげて下さい。明日、また来ますから」
ジャガットは何か言いたそうにしたが、あまりの忙しさに頭が回らず、結局頷いた。「そうか。また明日、来てくれるんだな?そうだな?」と熱心に訊く。
「ええ、必ず」青蛾は笑顔を返した。
裏口から出てきた青蛾はすっかり化粧を落として着替え、“蘭”に戻っていた。店中が慌ただしくなっているので誰にも気付かれずに済んだ。
「あ〜、お腹空いたな」蘭は大きく伸びをした。
耳元に火球が顔を突き出した。「さっきのは何だ?商売繁盛の舞か」と皮肉めいた口調でからかう。
「切欠にすぎないよ。後は彼ら次第だな」
店を振り返り、蘭は小さく微笑んだ。ジャガットの料理の腕の良さが町中で評判になるのも時間の問題だろう。差別が無くなった訳ではない。中には嫌な客も居るかもしれない。それでも自分の料理を美味しいと認めてくれる人には、彼は喜んで振る舞うだろう。全てを知って貰う必要は無いのだから。
いきなり、火球が「おっ」と声を上げた。
黒のライダースジャケットとグレーのジーンズ姿の若い男と、黄緑のライン入りのサファリシャツに赤み掛かった茶色のショートパンツを穿いた少年が前から歩いて来る。
「あの餓鬼は気に喰わねェ」火球は放って置いたら嫌がらせでもしそうな言い方をした。が、実行には移さず、煙のように散った。
気に喰わない、とはルミエルの事だ。彼に火球は見えない筈だが邪気は感じているのだろう、というのが蘭と火球の共通の意見だった。首を突っ込まれない為にも、ルミエルが近くに居る時には火球に引っ込んでいて貰うしかない。
蘭が手を振って合図すると、二人は此方に気付いてくれた。
先に口を開いたのは、柾の方だった。「一稼ぎとやらは済んだのか?」
「取りあえずな」小袋を揺すって蘭は答えた。客から貰ったチップが中でぶつかり合う賑やかな音がした。
「二人はここで何してんの?」
するとルミエルが真剣な目付きをした。「このへんで、変な感じがしたんだよ。あ、変ていうか………空気がきれいになってくような」
そわそわとしきりに何かを探しているルミエルの邪魔をしないよう声を落として、柾がこう言った。「たまにこうなんだ。普通の人間に見えにくいもんに敏感らしい」
「ふぅん」
素気無い風を装った返事をしたが、内心はやっぱりな、と思った。加えて、彼の言い方にルミエルへの理解を聞き取って、意外に思いもした。こうやってルミエルの行きたい所に黙って付き合うなんて案外、面倒見の良い奴なのかもしれない。
すぐにルミエルは目聡く例の料理屋を見つけた。もちろん、青蛾はもう居ないので、聖気は薄れていたが。
彼の肩を柾が軽く叩いた。「行ってみようぜ。飯も食えるし。お前はもう食ったか?」
柾に言われ、蘭は一瞬迷った。
(まだだけど………あそこにはあいつらが)
しかし、この姿で会った方が更に誤魔化せるかもしれないという考えが頭を掠めたし、フィーリアとアロドがどんな顔をするか見たいという悪戯心を擽られた。蘭は浮き浮きして二人と一緒に列の最後に並んだ。
いらっしゃいませ、と元気良く言いかけたフィーリアは、あんぐりと口を開けた。柾とルミエルは良いとして、数十分前までここに居た踊り子と同一人物ではと疑っていた蘭が入って来たからである。
「あれ?リアだ」蘭は驚いたふりをしてニコッと笑った。
「ここでバイトしてたんだね」ルミエルも店内をきょろきょろして言う。
フィーリアは返事も出来ず、穴の開く程、蘭を見つめたかと思うと、青蛾を探すように全部のテーブルを見渡し、再び蘭を見つめた。その動揺っぷりに、蘭は可笑しくてたまらず、急いで背を向けてカウンター席に座った。
客は幾らか減り、厨房内は落ち着きを取り戻していた。そこから顔を出したアロドが「何だよー。オレなんて朝も昼も抜きで働き通しだってのに」と恨めし気に言う。
「きりきり働け」柾が口の端を吊り上げた。
働く羽目になったのも自分の失態のせいなので、アロドはそれ以上言えなかった。脹れたふりをして顔を背けようとした時、柾の横に座るルミエル、蘭の順に視界に入った。
彼の反応もまた、期待を裏切らなかった。驚いて二度見してきたアロドに、蘭は「よっ」と片手を上げた。彼は頷いたが、同時に首を傾げようとしたらしく、首の骨がごきっ、と鳴った。
ジャガットは上機嫌だった。注文が蘭達で最後なので余裕が生まれ、ほっとしてもいたのだ。三人分の食事を作りながら彼は話し掛ける。「もう少し早かったら踊りが見られたのにな。残念だったな」
「すごく美人の踊り子が来てたんだよ」クトが口を挟んだ。蘭に片目を瞑って、「君も負けてないけど」と付け加える。
「褒めても何も出ないぞ」蘭はクスクス笑った。ジャガットにもクトにも正体はばれていないようだ。
大皿で運ばれて来た料理を取り分け、ルミエルと柾に渡した。ルミエルは一口食べた途端に激しく咳込み出し、水をもう一杯貰わなければならなかった。柾も別の皿を蘭に差し出し、「これ、食ったか?」と訊いた。
「わぁ。なぁに?」
「中に羊の肉が入ってる」
「美味しそうっ」
食事に夢中になっている蘭を、カウンターの陰から見張る者達が居た。フィーリアと同じ目の高さまで体を曲げていたアロドが突然、「わかった」と指をパチンとやった。「二重人格なんだよ」
「え〜?」
「だから蘭は青蛾の時のことは覚えてねーんだ」
「まさかぁ」フィーリアは苦笑いを浮かべ、相手にしない。
めげずに彼は大真面目に言った。「そういう妖力もあるかも、だろ?」
う〜ん、と彼女は人差し指を顎の先に当て、斜め上を見上げて考える。「蘭の妖力って………目に宿ってて、視力がすごく良いとかじゃないのかしら?」
かなり遠くにいた匈奴を見つけ出した事を思い出しながら、フィーリアは言った。だが、そういえば蘭の妖力について詳しく聞いていないと気付き、「もしかしたら………」と二人して彼女をじぃっと観察した。
当の本人は二重人格疑惑を掛けられているなど露知らず、高昌料理を満喫していたのだった。