第二話 胡蝶と青蛾 (4)
「うう………水が出ない」
蘭はシャワーの蛇口を全開にした。何度捻っても、水はちょろちょろと出るばかりだった。生活費を節約しようと安い隊商宿に移ったのは良いが共同の風呂場に浴槽は無く、配管は錆付いているし所々、黒かびが目立つ。旅慣れている蘭にとって古い宿に泊まること自体は苦では無い。ただ、水の出が悪いというのは髪の長い彼女には不便であった。
どうにかシャワーを終えるとフィーリアに借りたパステルカラーのルームウェアに着替え、髪をパイル地のヘアバンドで纏める。これだけ長いと邪魔臭いし手入れも大変だが、髪も大事な商売道具。手は抜けない。
蘭は自分の部屋には戻らず、男性陣の部屋へ向かった。案の定、蘭と色違いのルームウェアを着たフィーリアもそこに居た。かび臭い絨毯の上に輪になって座り、何やら計画を練っているようだった。
「すげーな。一日でこんなに稼いだの、初めてだ」アロドが誇らし気に言った。
お金を数えながら、フィーリアも安心したように言う。「お客さん、ほとんど来ないって言うから心配してたけど、大繁盛だったわね」
ルミエルから水の入ったコップを受け取った蘭は、礼を言う代わりに彼の頭を軽く撫でた。ルミエルは頬を染め、アロドの陰に隠れるように座った。蘭もフィーリアの横に座り、何食わぬ顔で水を飲む。
「でも、まだまだよ。楼蘭の調査中は野営するから、その間の四人分の食糧でしょ。今の宿代と食費。当分、この町に缶詰ね」フィーリアがふぅ、と息を吐いた。
「四人分って………蘭は行かねーの?」
「冗談。古代遺跡に興味ないし。後、何日かしたらあたしは次の町へ行くよ」
片手を振って蘭が答えると、アロドは少し残念そうに肩を落とした。
「そういえば………」とフィーリアが横目でちらりと見ながら言う。「ジャガットさんが報酬渡しそびれたって言ってたわよ――青蛾に」
(来た来た)
蘭は明日も行くし、と舌の先まで出掛かったのを引っ込め、平静を装い「青蛾って?」と空惚けた。
「お店に来てた踊り子よ。蘭にちょっと似てたのよね」
「ふぅん」
「弦楽器持ってた“おばあさん”が弾くのに合わせて踊ってたの」
これはフィーリアの策略だ。あの時、ドゥッタールを弾いていたのは男性だった。だが“蘭”が店に入ったのは彼が帰った後。つまり、“蘭”は彼とは会っていない筈であり、当然、性別も知っている訳が無い。ここでフィーリアの話を否定すれば自分が“青蛾”だと認めてしまうことになる。そんな策に引っ掛かるような蘭では無い。ニコニコして彼女は白を切った。
ところがフィーリアの作戦を理解していない奴が一人居た。アロドがぶっ、と吹き出し「バカだな。どう見たってじいさんだったじゃねーか、あの人」とへらへら笑った。
直後、フィーリアの手刀が頭の天辺に勢いよく振り下ろされ、笑い声はぴたりと止まった。
「ちょっと来なさい」と、部屋の隅まで引き擦られていくアロドを、蘭とルミエルは冷や汗を流して見ていた。
「いってーな。何すんだよ?」
「バカはアンタよ!さっきのでもしかしたら、しっぽ掴めたかもしれないのに」
「はぁ?無理無理。二重人格だって言ったろ?」
もはや彼は、蘭を二重人格と信じて疑わない。
今も観光パンフレットを見ながらルミエルと喋っている蘭は決してぼろを出さず、とても自然だった。
(やっぱり別人か、本当に二重人格なのかしら)
フィーリアまでもそう思い始めていた。こうして二重人格説は更に強まっていった。
そんな二人にルミエルが声を掛ける。「ねぇっ。お金足りないなら、むりして遺跡に行くことないんじゃない?」
彼は楼蘭には幽霊が出るという噂を聞いて以来、調査に気乗りしないのだ。何とか皆を思い留まらせようと四苦八苦しているのだが。
「何言ってんだ。宝探しするためにここまで来たんだぜ?」
またもやアロドに一言で片付けられてしまった。見えない物を信じない人間を説得するのは容易い事では無い。ルミエルはぷぅ、と頬を膨らませた。
アロドは此方へ戻って来て、どさっと腰を下ろし、地図を広げた。「楼蘭は………ここだな。車でも三日はかかる距離だ」
「まさかと思うけどさ」蘭は『高昌』と書かれた場所から指を真っ直ぐ下ろして『楼蘭』を差した。「こう行くつもりじゃないだろうな?」
しかし、彼は胸を張って答えた。「おう。砂漠を南下する」
「またそういう無茶なルートを」
確かに楼蘭はこの町の真南にある。だが、その間に舗装された道は無い。砂だけの完全な砂漠なのだ。目印になるような物も無く、宝探しどころか無事に遺跡まで辿り着けるのかさえ危うい。
「ちゃんとした案内人頼まないと、迷って帰って来れなくなるぞ?」
「そうね………蘭の代わりの案内人さん、探さなきゃいけないわね」
握った手を口元に当てて考えるフィーリアに、蘭は溜め息を吐いた。
(こいつら、大丈夫なのか………?)
自分には関係無い事なのだが、彼らの先が思い遣られてならない。
「お前らってさ。皆、宝探しが趣味で集まったのか?」
「言い出したのは、アルよ」とフィーリアが説明する。「アルのお父さんが有名なトレジャーハンターでね、その影響を受けちゃってるのよ」
「ガキの頃から、よく発掘に連れてってもらってさ、珍しいモンとか化石とか見つけた時は、すげーうれしかったぜ」
「ついでによく壊してたわね。貴重な歴史の遺物を」
アロドはうっ、と息詰まった。「あの頃は妖力をコントロールできなかったからな………でも親父は怒らなかった。いつも笑って許してくれてた。オレが壊したくて壊してるんじゃねーってわかってたから。親父にいろんな遺跡を見せてもらってるうちに、オレもそういうモンが好きになった。絶対、壊したくねーって思うようになった。そしたらだんだん力加減がわかってきて、コントロールできるようになったんだ」
「良いお父さんだな」蘭は微笑んでいた。
アロドの顔がぱっと輝き、人懐っこい笑みを広げた。「ああ。自慢の親父さ。オレの目標だよ」
そして彼はフィーリアに目を向けた。「リアは学者の家系なんだよな。考古学とか歴史にくわしいし。えーっと、親父さんは何の研究してるっけ?」
「天文学よ。歴史学はわたしが好きでやってるの。アンタと違って、脳みそまで筋肉じゃないし」
一気にそこまで言うとフィーリアは生意気そうにつん、とそっぽを向いて見せた。蘭にはそれがどこかぎこちなく、わざと話を逸らせたようにも見えた。
そこには触れずに、蘭はもう一つ質問する。「二人は昔から仲良いの?」
「幼なじみよ」
「幼馴染かぁ。うんうん、そんな感じだな」蘭は妙に納得してしまった。ただの友達でも恋人でも無く、姉弟のように親し気だとは思っていた。フィーリアは妖力持ちでは無いから、本当なら幾らでも良いバイト先がある筈だ。それなのにアロドと同じ場所で働くのは、彼を一人にさせるのが心配だからだろう。
「ルーは迷子だったのを拾ったんだ」
「迷子じゃないっ!」アロドの言葉に、ルミエルはすぐさま反発した。
「家出中なのよね?」
やれやれ、という風に眉を八の字にして、フィーリアはルミエルの頭を撫でた。大人しく撫でられながら、彼は俯き加減でぼそぼそと話す。「別に。家出っていうか………ちがう世界を見てみたかったんだ。あそこにいたって何も変わらないから」
膝を抱えるという子供っぽい座り方をしているのにルミエルの眼差しは深く、賢さを匂わせている。髪と同じ栗色の瞳。彼もまた、自分の未知の力に苦悩しているのだろうか。
「次は柾ね。アイツもお目当ての物があるみたいよ。何でも倭皇国の国宝級のお宝らしいわ」
倭皇国と言えば、漢帝国と海を挟んで隣り合う小さな島国だ。柾はそこの出身らしい。
「そんな大事な物が海外に?」蘭は首を傾げた。
「何年か前になくなって、ゆくえ知れずだって言ってたよ。国中探しても見つからなかったんだって」とルミエルが肩を竦めた。
「倭の宝かー。気になるよな。どんなモンなんだろう?」アロドは腕を組み、目を瞑って考えに耽った。
「柾自身もわからないって言うから、呆れちゃうわよね。知らない物をどうやって探すつもりかしら」
「でも、一目でわかるはずだって言ってたよ」
「サムライの勘ってヤツだな、うん」
「それ、今考えたでしょ?」
彼らの話を聞いているうちに、蘭はやっと話題の主が居ない事に気が付いた。
「そういや柾は?」
「バイトよ。ほら、ルッちゃんは働かせられないから昼と夜でわたし達と交代でするの」フィーリアが自分とアロドを交互に指差しながら答えた。随分、役割分担がはっきりしている。資金不足はどうやら今回が初めてでは無いらしい。
アロドはへへっ、と笑い「アイツは客に愛想ふりまく商売向きじゃねーしな。丁度いいんだろう」と言った。
(夜の商売って、限られてくるよな………)
蘭は、柾が酒場で銀のシェーカーをシャカシャカ振る様などを想像してしまった。仏頂面の彼にはどうもしっくり来ないような気がしてならなかった。
そうだ、と急にルミエルが立ち上がり、分厚い本を数冊出して来てフィーリアに渡した。「頼まれてた本、買っておいたよ」
「ありがとう!ルッちゃん」空色の瞳をきらきらさせ、彼女は本を大事そうに抱えた。
アロドがうげぇ、と下品な声を出した。「まだ勉強すんの?」
するとフィーリアはちっちっちっ、と指を振って言った。「あのねぇ。楼蘭について詳しいことは何一つわかってないのよ。周辺国の歴史を調べれば、役に立つ情報が見つかるかもしれないでしょ?」
フィーリアは地図をきっちり畳み直し、色褪せた絨毯に散蒔いた紙幣やら硬貨を掻き集めた。
その素早い手の動きには、今度こそアロドに渡してなるものかという強い意志が滲み出ていた。