美味しそうな匂いと湯気が立ち込める宿の厨房。
极母さんはくつくつと煮える鍋の火を止めて言った。
「後は
花椒を入れて出来上がり。お昼にしましょう。
雄君が部屋にいるはずだから呼んで来てくれるかしら?」
わたしはぎくりとして、大皿を取り落としそうになった。自分達で持ち込んだ物ならともかく、この宿の物を壊してしまっては大変だ。慌てて抱え込み、「は、はい。极母さん」と返事をする。声が
上擦っていた。
「
玉兎ちゃん!お皿は置いていって良いのよ!」
少し慌てた声が追い掛けて来て、思わず赤面した。言われるまで気が付かなかったけれど、わたしは緊張のあまり大皿をしっかり握り締めたまま厨房を出ようとしていた。
一番上の兄、
雄黄。わたしにとっては曲芸の
師でもあり、とにかく厳しいという印象が強い。練習の時はたくさんダメ出しをされる。けれど普段はあまり喋らない。じっと黙っていれば本当なら目立たないはずなのに、雄兄の場合は逆にその存在を大きくさせているような気がする。兄と居るとぴりぴりした空気が肌に食い込むようで、正直わたしは苦手だった。
(ただ呼びに行くだけじゃない。落ち着け、わたし。落ち着くのよ)
両の拳をぎゅっと握り、ひたすら暗示をかけた。そのうち、昼食の用意が出来たことを伝えるためだけにこんなにも緊張しているのが馬鹿らしくなってきて、二階の廊下に立った時には頬が熱くなっていた。
今、借りている部屋は三つある。男女別れて一つずつと、
燕緋姉の部屋が一つ。雄兄は意外にも自室を欲しがらないので、
星や団長と相部屋だ。
たっぷり一分、
躊躇った後、ついに意を決してドアを叩いた。返事の代わりに重い足音が近づいて来て、ガチャリとドアが開いた。ああお前か、という風に雄兄はわたしを見下ろした。冷たい刃で脳天を貫かれたように、わたしの頭の中は真っ白になった。
「………………」
「………………」
気まずい沈黙。
雄兄の金色の瞳が、用件は何だ、と言うように細められた。
(ひぃ〜っ!怖っ!)
睨み付けられたように感じ、わたしは下を向いてぎゅっと目をつぶった。雄兄の目付きの悪さといったら目が合っただけで大抵の子供は泣き出すし、
馴染客には『金眼の狼』と称す人もいるほどだった。
「わたし、あの………あの……あの!あのあのっ!」
早くここから逃げ出したい。ダメ、そんなんじゃ。わたしは极母さんに頼まれて来たんだから。でも、あれ?わたし、何を言いに来たんだっけ………?
すっかりパニックを起こし、冷や汗がだらだら流れる。
すると、笑いを含んだ明るい声が重い空気を打ち破った。「どうした。告白でもしてんのか?顔、赤いぞ」
びっくりして振り返ると星が立っていた。
「行ったきり戻ってこないから探しにきたんだ」親指をくいっと後ろに向けて、更に言う。「雄兄、昼メシだって」
「ん、そうか」
わたしの役目が。今までの努力が。というより、こんな事も出来ないわたしって………。
ふにゃりと体の力が抜け、汗だくのままドアの枠にしがみつき、がっくりとうなだれた。その間に、あっさりと用件を済ませた星はさっさと階段を降りて行った。
急にずっしりとしたものが頭に触れた。はっとして顔を上げると、それは雄兄の手だった。前を向いたまま、わたしの頭をぽんと軽く叩くと、雄兄は先に行ってしまった。
わたしはぽかんと口を開け、その広い背中を見送った。雄兄に頭を
撫でてもらうなんて初めてだ。撫でるというよりはただ手を乗せただけと言った方が正しいかもしれない。それでも、温かくて安心させるような触れ方だった。怖いという思いはあっという間に溶けていった。
「玉兎?早くこいよー」下から星の声が響き、我に返った。
「今、行く」
わたしはまだ少し
火照った頬をぱんぱんと叩き、皆が待っている厨房へ向かった。
終わり
歌詞が凄く良くて、玉兎と雄黄両方の心情に当てはまる箇所がある気がします。